赤塚高仁ブログ

やまとのこころで読む聖書

2018.10.13

ゆうべは大阪で聖書講義でした。
長く通ってくれている兄弟たちなので、
私の新しい気づきを興味を持って聞いてくれます。

不思議なもので、新しい視座が生まれると、これまで見えなかったことが見えるようになります。
そして、
それにふさわしい出会いも生まれてきます。
聖書の読み方も変えられてきました。

 イエスキリストはキリスト教では「神の小羊」、
主なる神の子とされた聖なる存在です。
だから、
イエスは何のために生きたのか、
イエスのライフワークは何かと聞かれたら、
99パーセントの人は「伝道」あるいは「説教」とこたえるでしょう。
もちろん、
イエスは父と呼んだ神の仕事を地上で為したのですが、それはキリスト教という宗教を広めるためであったと考えたら、
彼の生涯は何の意味もなくなってしまいます。

神がキリスト教を作るのが目的であるなら、キリスト教ができた時点で世界は完成し、平和な地球ができあがっているはずです。
キリストイエスが地上に現れても世界が平和になっていないのは、どうしてでしょう?

 その答えは、いまはまだわかりませんが、
イエスがやってきたのは、説教をするためでも、
教えるためでも、
病気を治すためでも、
人を慰めるためでもないということはわかります。
それは、神の仕事の一部でしかないのです。

人間が生まれ、生きることに意味があるのは、
「生きること」が神のすべてをつぎこんだ大きな試みだからでしょう。
人は、神さまと約束して親を選び、
環境を選んで生まれ、
そこで起きるさまざまな出来事も自分で書いてきたシナリオであり、キャストも全部自分で選んでこの世にやってきました。
自分の意志で今世どう生きるかを決めて生まれ、
それを定めと呼び、定めの通りに生きると幸せになり、定めから離れると苦しくなるよう仕組みがあるようです。

 自分の定めを生きること。

そのとき自分に与えられた試練を受け入れ、
状況を打破し、才能や力を出し惜しみせず出し切って生きてゆく。
それが神の願いでもあり、定めを喜んで生きることが神を崇めることであり、祈りでもあるのです。

わたしは、人類の歴史の中で最も過酷な定めを与えられ、その定めを生き切った人物こそキリストと呼ばれるようになったイエスだと思っています。

 貧しい家庭に育ち、実の父ではない男の手伝いをして大工となり、30歳で自分の定めを自覚し、家を捨て、家族を捨て、仕事を捨て、定めに従いました。
それから3年間、
大勢の人々に影響を与え、弟子ができたものの失望されて全員に裏切られ、捕えられて殺されたという物語が聖書に書かれています。

 イエスが馬小屋で生まれ、洗礼を受け、伝道生活の後、十字架にかかって死ぬ。
再び3日後に復活したという、キリスト教の劇のような話から離れて、イエスのライフワークは何かという視座から聖書を解読してみるという試みです。

 キリスト教の教会では、イエスは神の子といわれ、生まれながらにして全知全能と決めつけられています。
奇跡を起こし、病気を治し、水の上を歩く超人だとしているために、彼の3年間の伝道生活はあらかじめ予定されている芝居のようなものに思えます。
しかも、ユダヤ人の処女から生まれた!?
そんな特別な人生に共感などもてるでしょうか。

キリスト教関係の本は、ほぼ例外なくイエスを神の子としていますが、
イエス自身は聖書の中で自分のことを「人の子」と呼んでいます。
 
私は、イエスが育ったナザレという町を何度も訪ねましたが、それはそれは小さな集落です。
エルサレムからは少し離れた田舎町です。しかし、土地は肥えて緑豊かな静かな町です。
少年イエスは、人の子として育ち、青春時代には恋もしたことでしょう。

人の子イエスを知るとき、私たちは聖書に流れる大いなる意志に触れるのです。
そして、時空を超えて実存のキリストイエスと出逢うという霊的体験をします。

 教会にも行かず、洗礼も受けず、神学も学んだことのない私の魂にイエスキリストは接触してくださいました。
そのときから、私は新しい人生に入れられました。

ユダヤとヤマトを結び、一人でも多くのヤマト人をイスラエルに案内します。
キリストをヤマト人に伝えます。
また、ユダヤ人を日本に迎えやまとのこころに触れてもらいます。
そのことを通じて私は最高の人生を送ることをライフワークに決めました。

 来年は、札幌、東京、名古屋、大阪での聖書塾を開催します。
聖書講義は各地で行います。
聖書を生まれてから一度も手にしたことのない方にこそ、聞いていただきたいと願っています。

近く詳細をご案内します。

 キリストイエスに出会ってください。

PAGE TOP