赤塚高仁ブログ

仰げば尊し、糸川先生

2018.02.21

 1999年2月21日
朝早く、信州の金井剛さんから電話がありました。

「糸川先生、行っちゃったよ」

永い闘病生活でしたから、いつかこの日が来るとは思っていましたが、
いざ、その日を迎えてみると、淋しさばかりがこみ上げてきて、
一人で信州の糸川宅に泣きながら運転していきました。

いまから30年前のことです。
 1989年7月23日に、世田谷の糸川英夫宅を訪問して
「この人の弟子になろう」と勝手に決めました。
旧約聖書の講義があまりにも面白かったのと、
イスラエルという未知の世界に魅せられましたので。
いえ、それは理由です・・・
いま思えば、わけなどなかったのに、
心の奥の方から湧き上がってくる情動に従った、というのが本当のところかもしれません。

 弟子は師匠を決められるが、
 師匠は弟子を決められない。
そう勝手に決めて、先生のお宅に通いました。
そうは言っても、津から世田谷は近くはないので、少し頑張りました。
車で走ったり、新幹線に乗ったり。
聖書の勉強のあと、
ご飯を御馳走になり、泊めてもらって朝帰る。
思えば夢のような、
贅沢な恵みの時間でした。

いろんな先生の講演を聞き、
本も読み、セミナーにも出かけてゆきました。
それぞれの「いいとこ」どりをしてきました。
でも、
師匠はそうではありません。
嫌なとこあるのが人間です。
そばにいれば、否応なしに欠点が目に入ります。
「わるいとこ」も飲み込み、おそばにいられる自分になるのだと思います。
師匠が、白いものでも黒だと言えば、黒とするのが弟子です。
それが、先生だとそうはいきません。
先生の批判をしたり、次の先生を探したり、私が変わるということはありません。

 私の人生の中で、糸川英夫と過ごした10年がどれほど大きなものだったのか、
わかるようになってきたのは最近のことです。

「苦しみ」の原因は、私について考えることだと思いますが、
私はつくづく頑固な人間だと、自分のことを思うのです。
私の事しか考えません。
そんな私が、糸川先生に対しては、自分に死ぬことができたのです。
「はい」と従いました。
父にも、母にも、妻にも、友にもできなかったことです。

人生の中で、そんな相手があるということのすごさを思うのです。
「自分に死ぬ」
これほど難しいことはありません。

 尊敬というだけでは説明のできない、もっと大きな力が働いていたようにも思います。
もしかしたら、
生まれる前から定められていた、「聖なる約束」だったのかも知れません。

ロケット博士として世界に知られている糸川英夫博士ですが、
そばに置いていただいた10年間、糸川先生は私にロケットの話をしたことがありません。
自分がやったことの自慢ばかりしている私には、それが驚きです。

過ぎたことに興味のない人でした。
子どものような眼をして、未来を見ている人でした。

 そんな糸川先生の人生最後の仕事が、
日本とイスラエルを友情で結ぶことでした。

「日本とイスラエルが手をつないで、世界を平安に導く。
 私は科学者だから、神様という言葉を使えないけれど、これは私が願ったというよりも、
 そうさせられているとしか言いようがない」と、先生は言っていました。

糸川先生亡き後、イスラエルへのツアーも終わると思っていましたが、
なんとか20年近く続けてこれました。
天上界からの、糸川先生の導きだと思えます。
今年5月には、本田健さん、久保田早紀さんと行くツアーの団長をさせていただきます。
6月には小川雅弘さんと、イスラエル建国70年を記念して「ヤマト・ユダヤ友好協会」を立ち上げる予定です。
エルサレムに記念碑を立てます。
糸川英夫博士を名誉会長に・・・と、考えたのですが、
名誉教授とか名誉会長という肩書を嫌った先生でしたから、それはできませんね。

 新しく生まれる「ヤマト・ユダヤ友好協会」(仮称です)は、糸川先生に喜んでもらえるものにしなければいけません。
この協会をベースに、聖書塾も開催し、イスラエルの情報も伝えてゆきます。

 私は、糸川英夫博士ではありませんが、
誰よりも糸川先生の願ったことを伝えることができると信じています。
糸川先生について語るのではなく、
糸川先生の願ったことを伝えるのです。

 「ヤマト人への手紙」の中にも「預言者イトカワ」という一章を書きました。
私の人生も転換期を迎えているような気がする、糸川英夫の19回目の命日の朝です。

 今日一日は、ずっと糸川先生の事想っていようと思います。

 

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