赤塚高仁ブログ

言葉は自分に返ります

2017.11.24

いつか人は自分の言葉に出合う。

自分が蒔いた種は、自分で刈り取らなければならない。

起こったことには意味がある。

宇宙の法則の中のこの三つは
改めて今日も心に刻みます。

初めに言葉があった
言葉は神であった
言葉によって出来ないものは
何一つなかった

と、
ヨハネは自身の福音書の冒頭に書いています。

イエスも、
自分の中に入れたものより、
自分から出したものが、
自身を汚すと言っているほどです。

どんなにたくさん勉強しても、
たくさん講演会を聴いても、
セミナーに通い続けていても、
本を何冊も読んで知識が頭に入ったとしても、
それで人生は変わりません。

聖書が丸ごとアタマに入っていても、
人生は変わらないのです。

一歩踏み出し、行動して、
感動して、感動を与えることができて、
人を愛せて、人から愛されて、
生きていることが懐かしく思えるとき、
勉強や知識が生きたものになったといえるのではないでしょうか。

愚痴
泣き言
不平
不満
文句
悪口
すべて、体に悪い食べ物をわざわざ食べるようなもの。

思いの中身を変えることは
すぐに出来ないかもしれません。
でも、
毒を吐かないことはできます。

「誰かに愚痴を聞いてもらわないと、
病気になる」
と、言う人がありました。
病気になった方がいい。
毒をまいて人を汚すより。
神様は、
「愚痴や不平不平を言いたいはずなのに、
ありがとうという人」を見ている。

どちらの道を進むのか。
神様も人もお見通し。
お天道様は、いつも見ています。

そう思う
今朝です。

神様、 生かしてくださって
ありがとうございます。

自分で自身をゆるします。

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