赤塚高仁ブログ

にんげんクラブ 連載8回その1

2014.02.18

 船井幸雄先生が亡くなり、葬儀が行われました。

初めて船井先生にお目にかかったのは、京都の中村菌研究所「ユナルゲン」の会社だったでしょうか。

いつもにこにこしておられた姿が思い起こされます。

でも、瞬時に物事でも、人物でも本質を見抜かれるお方だったです。

不思議なご縁で、船井先生が残された「にんげんクラブ」での連載が続いています。

第8章になりました。

タイトルは

  「ユダヤからの伝言」

 

ヤマト人への手紙 第八章          赤塚高仁
 「ユダヤからの伝言」
 
ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、
おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。
ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、
わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。
それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。
わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう。
                        マタイによる福音書 第二三章

旧約と新約

 ユダヤ民族の中に生まれた一人の人物が、人類の歴史を変えました。
創世記から始まる三九話にわたる旧約聖書は、神とユダヤ民族との約束が刻まれています。
実に旧約聖書を通読してみると、そこには、救世主が、どう生まれ、どう生き、そしてどうやって死ぬかが記されています。
驚くべき秘密の書であると言って良いでしょうか。
箱舟の後、ノアとの最初の契約。
ユダヤ民族の父祖、アブラハムと神との約束。
その後、偉大なリーダー、モーゼが神から与えられた戒め「十戒」が律法の始まりとなり、やがて六百十三もの戒めに分けられてゆく経緯が綴られています。
そして、律法学者や祭司たちが戒律によって人々をジャッジし、裁いてゆきます。
しかし、そのことを神は「善し」とせず、人として本来のあるべき姿に立ち返れと預言者を通じてメッセージを送りますが、宗教家たちは次々と預言者を殺します。
ついに、神御自身が自らのひとり子を送り出し地上に降り立たせます。
そして彼は、三年間、人間の姿をとって地上を歩いたのでした。
その結果、神は、「人には律法を守ることなどできない」とお気づきになるのです。
律法は、一点残らず守らなければならないが、人間にはそれは不可能だ、と。
だから、新たに契約をしなおさなければならない・・・。
それは、律法でなく、神が送りだした救い主に満ちる神の霊(聖霊)に満たされ、人は生まれ変わるという新しい約束です。
預言の通り生まれ、預言の成就を成し遂げて死に、そして、復活して見せた人。
神が送り給うた、神のひとり子。
ベツレヘムに生まれた彼の名は、イェシュア・ベン・ヨセフ。
彼こそが救い主だというギリシャ語が、「イエス・キリスト」。
救い主「メシア」のことをギリシャ語で「キリスト」と呼ぶからです。
彼の誕生以前を「BC」と言い、「ビフォアー・キリスト」、救い主が現れる前。
「AD」というのは、ラテン語で「主の時」の頭文字です。
そのとき始まったカウントが、西暦と言う人類の座標軸であり、今、世界はその時計で動いています。
それ以前の約束を「旧約」、それから始まった新しい契約を「新約」と呼ぶのです。
ところが、神との約束が成就したにもかかわらず、ユダヤの民は、救い主を認めることをせず、こともあろうかその救い主を十字架に掛けて殺してしまいました。
しかし、イエスは命が永遠に続くものであることを証明するために、死んで三日目に、復活して現れて見せました。
四〇日間、復活のキリスト・イエスは弟子たちの前に姿をあらわし、皆が見守る中、天に昇って行ったのです。
その十日後、イエスは聖霊を弟子たちに降らせ、彼らは人格一変、聖霊の愛を伝える伝道者とされたのでした。
「罪」とは、ギリシャ語で「的外れ」という言葉が語源です。
神に背を向けることが罪であるということ、命は死んでも終わらない永遠なのだということを伝えた、ユダヤの王イエスは、いまもありありと「聖霊の愛」として生きてはたらいているのです。

 


 

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