赤塚高仁ブログ

殉国七士廟

2015.04.20

にんげんクラブ愛知支部主催の講演会、刈谷駅前の会場に向かう前に三ヶ根山頂に向かいました。

殉国七士廟

この「殉国七士廟」に祀られているのは、先の東京裁判で、日本を背負って絞首刑にされた七名です。

いわゆるA級戦犯といわれた方々です。

東京裁判は、大東亜戦争の戦争責任を追及する裁判として、アメリカ・中国・イギリス・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・ニュージーランド・インド・フィリピンの11カ国が判事を出して行なわれた裁判でした。

起訴は昭和21(1946)年4月29日に行なわれました。
4月29日といえば、昭和天皇の誕生日です。
それだけみても意図的な報復裁判であることがあきらかです。

27億円の裁判費用は、日本政府が全額供出させられています。
当時の日本が、終戦直後で、全土が焼け野原、世界の最貧国同然だったにもかかわらず、です。

東京裁判は、昭和23(1948)年11月4日に、判決の言渡が始まり、11月12日に判決言渡が終了しました。

判決は、法治社会にあってはならない事後法(事件のあとで作られた法、法律には不遡及の原則があり、法のできる前の事件は裁けないのが原則)に基づく一方的なものでした。

そして、次の七士が、A級戦犯として絞首刑の判決を受け、

土肥原賢二(陸軍大将、特務機関)
松井石根(陸軍大将、中支那方面軍司令官)

東条英機(陸軍大将、内閣総理大臣)

武藤章(陸軍中将、第一四方面軍参謀長)

の4名に続き次の3名に死刑が執行されました。

準備された処刑台が5基だったからです。
板垣征四郎(陸軍大将、関東軍参謀長)

広田弘毅(文民、内閣総理大臣)

木村兵太郎(陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)

死刑の執行は、判決の翌月である昭和23(1948)年12月23日です。
この日は、当時皇太子殿下であられた今上陛下のお誕生日です。
ここにも意図的な報復を感じます。

裁判の開廷の日、刑の執行日に、我が国のもっとも大切な陛下のお誕生日をそれぞれ宛てる。
この裁判が、いかに異常な報復行動であったかを象徴しています。

絞首刑となった七士は、即日火葬に付されています。

死刑に際しては、手錠をはめられ、その手錠を更に股間に通じて後ろの腰の部分に縛ってあるため、

拘置所の観音様の前で飲む最後の葡萄酒のコップも、天皇陛下万歳の最後の手もようやく首のところまで達するという惨めな姿だったそうです。

そのまま無残にも死刑執行されました。

実は、七士の各担当弁護士たちは、刑の執行のあと、せめてご遺体を家族に引き渡そうと、マッカーサー司令部に請願していたのです。
しかしGHQは、まるで受け付けませんでした。

このままでは、遺体はもちろん、遺骨も家族に戻されることはありません。

私たち日本人は、罪は憎んで人は憎まずという国民性です。

死者に鞭打つような仕打ちなどしないのですが・・・

A級戦犯としてすべての戦争責任を負わされて殺されていった七人の将軍たち。

戦争に負けたため憎まれ、恨まれて、永らくその遺骨の一部さえどうなったかも不明でした。

しかし、時代が変わり世界が変われば「アジア諸国を、白人の植民地から解放してそれぞれ立派な独立国へと歩ませた、偉大な英雄たち」と、

崇められるときが来ないとも限らないのです。

そこで数名の有志たちが、無法とも思える計画を立案します。

現地で説明をしてくださった、ボランティアの伊藤さんからいただいた資料に書かれている物語から抜粋します。

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全部の遺体が焼けたのは、一時間半ほど経ってからだった。

窯の扉が火夫によって開けられ、長い鉄のカキ棒で白骨が取り出されると、火葬場長の飛田は、七人の遺骨の一部を七つの骨壷に入れて他の場所に隠した。

ところが、この隠した骨壷は、誰かがA級戦犯を憐れんだのか、線香を供えたために、香り煙のために監視の米兵に見つかってしまった。

このため骨壷は米兵の手もとへ移った。

米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕きはじめた。
それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。

米軍がA級戦犯の骨を砕いて、空から東京湾へ撒くという噂があった。
それは日本人が英雄崇拝の対象になるのを恐れて海にばら撒くというのである。
遺骨を隠すことに失敗した飛田は、内心穏やかでないあせりがあった。

骨を砕き終えた米兵は、黒い箱を七つ出して、砕いた骨を入れた。
そして箱の上に1から7までの番号を書き入れた。

この遺骨の入った箱は、A級戦犯の遺体を巣鴨から運んでんきた米兵が持ち去った。
台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、米兵の監視つきで火葬場にある共同骨捨て場に捨てるように命じられたのである。

A級戦犯の遺骨を奪う計画は、小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平によって進められていた。
三文字弁護士は、米人弁護士のブルウェットに相談し、彼を通じてGHQに処刑されたA級戦犯の遺骨を遺族たちに渡せるように嘆願していたのである。

ところが、マ元帥は一向に首を振らなかったため実現はしなかった。

そこで三文字弁護士は、巣鴨プリズンにおいて処刑されたA級戦犯が、久保山で火葬されることを探りあてた。

三文字は火葬場のすぐ上にある興禅寺を訪ねて住職の市川伊雄と会った。
市川住職は東京裁判にも傍聴に行き、裁判の不公平さに怒りを抱く一人であった。
三文字弁護士が市川住職に協力を求める説明にも熱が入った。

このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。
彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、辱めを受けて浮かばれなくなる。

市川住職も日本人として耐えがたいことだったので、三文字に協力することを引き受けた。
市川住職は、火葬場長の飛田を三文字に紹介したのである。

久保山火葬場の内部に働く人の協力で、はじめはA級戦犯の遺骨を分けて隠すことができたのが、米兵の監視に見つかり失敗した。

今度は、火葬場の共同骨捨て場に捨てられているA級戦犯の骨を持ち出さなくてはならない。
次の新しい骨が捨てられるまでは、一応、少しは他の骨も混ざってしまったとはいえ、七人の遺骨は残っている。

これを盗み出すのは12月25日の夜と決めた。
米軍の監視がクリスマスで気がゆるんでいる隙に実行しようというのである。

暗くなり、頃合を見計らって、三文字弁護士と市川住職は勝手知ったる飛田火葬場長の案内で火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。

三人は米軍の監視に見つからぬように、闇夜の中で外套を頭からかぶり、身をかがめながら作業を始めた。

三人は暗がりの中で音を立てないように、根気よく手探りで遺骨を探し集めた。
七人の遺骨は全体の一部でありながら、大きな骨壷に一杯分を集めることができた。

火葬場から盗み取ってきた遺骨は、湿気をとるために再度焼かれた。
遺骨のことが世間に漏れては米軍の咎めを受けることになる。

そこで三文字の甥で、上海の戦線で戦死した三文字正輔の名前を骨壷に書いた。
これを興禅寺に預けて供養することになったのが、A級戦犯として処刑された七名の秘められた供養であった。
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横浜市久保山火葬場で火葬に付されたお骨を、米兵は鉄製の鉢の中に入れて、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕いたのです。
信じられない行為です。

そして寒風吹き荒む真夜中に、三文宇正平弁護士と市川伊男(これお)住職のお二人が、ありあわせの黒装束で、飛田火葬場長の案内で目的地に出向いたのです。

場所は、火葬場の共同骨捨て場の穴の中です。
真夜中で、暗くて、灯も物音も絶対禁物です。
見張り員に見つかったら、その場で射殺され、二度と七士のご遺骨は手に入らない。

こうして取得したご遺骨は、一時、人目を避けて伊豆山中にご安置しました。

これが昭和23(1948)年の暮れの出来事です。

日本は、昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約を締結しました。
これにより「連合国統治領日本」となっていた日本というエリアは、ようやく独立した国家としての「日本国」となりました。

三文字正平弁護士は、この講和条約の締結と同時に、殉国七士の墓碑を建造をしようと運動を開始します。
そして昭和35(1958)年4月28日、東京の日比谷で開かれた東京裁判弁護団解散記念会で、墓碑建造計画を発表しました。

すると、猛烈な反対運動が起こりました。

三文字正平弁護士の地元の形原町役場には、「明るく楽しい観光地におくとは何事だ。平和な三河山頂に、暗い恥ずかしい思い出につながる記念碑を建てるのは、許すことは出来ない」などといった投書が殺到したのです。

いまにしてみれば、そういうことは反日のプロ市民による行動とわかるけれど、当時はそんなことはわからない。
これが民意であると誤解する人々も多く現れます。

しかし三文字正平弁護士はあきらめませんでした。
七士のご遺族、政財界での賛同者を募り、各方面の有志たちと連携し、資金と場所の確保に奔走します。

そしてようやく愛知県幡豆(はず)郡幡豆町役場の好意を得て、三河湾国定公園三ケ根山頂に、七士の墓碑とご遺骨の埋葬を実現したのは、運動を開始してから8年後の昭和35(1960)年8月16日のことでした。

この日、三ヶ根山の「殉国七士廟」の前に、関係者とご遺族が列席し、初の慰霊祭が静かに執り行われたのです。

殉国七士廟入口にある巨大な石の塔
(書は岸信介元内閣総理大臣。力強く実に立派な書です)

その日以来、毎年4月29日の昭和天皇御誕生日には、この地で慰霊祭が採り行われ、今日では七士廟の周辺に、大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並ぶようになりました。
いまでは、82の慰霊碑が建立され「殉国七士廟」とともに並んでいます。

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さすがに、講演会の直前にこの見学はこたえました。

この話や、A級戦犯のこと、極東軍事裁判、東京裁判、パール判事のことなどにふれると、やまとこころのキャンドルサービスどころでなく、

キャンドルが燃えて溶けてしまいそうでしたから、あえて触れませんでした。

ただ、わが師匠、糸川英夫が戦犯に数えられそうだったという話をしました。

兵士をたくさん殺した戦闘機「隼」を設計した、「平和に対する罪」

糸川先生は、あるとき私にこんな風に話してくださいました。

「私は、飛行機を自分の子供だと思っていましたよ。

子供に人殺しをさせたい親がどこにいます? どうか無事に帰ってきてくれと祈っていました。

飛行場に還らない隼があれば、私は花を手向けてきたんです」

そして、はらはらと涙を流されました。

 

 勝仁さんは、「天皇にも戦争責任がある」と言います。

「聖なる約束」にもそう書かれています。

実は、私がもっとも強くひっかかった部分でもあります。

出版、共著は無理なんじゃないか・・・ でも、勝仁さんの意見を、着物を羽織るように着てみることにしました。

そして、本が世に出ました。

イエスキリストは、ご自身の罪のために、その責任のためにはりつけになったのですか?

天皇陛下は、ご自分の戦争責任のために慰霊をされているのでしょうか?

あえて何も言いますまい、今は。

いつも歴史は、勝者の記録が元になるものです。

でも、時の流れの中で残されてゆくものは、天意(あい)に沿ったものだけだと私は信じています。

だから、私は聖書に学ぶのです。

 

 

 

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