赤塚高仁ブログ

神様が宿る宮とは?

2013.06.07

ワシは、子供のころからいじめられっ子でした。

ですから、いまもいじめは許せないし、いじめっ子が大嫌いです。

ところで、いじめられっ子といじめっ子
このの両者がいて関係は成り立つのですが、
逆に言うと、この両者が出会わなければいじめは起こりませんね。
出会いは、いつも必要・必然であるなら、ふたりは偶然に出会ったのではなく、 共通する"なにか"で引き合い出会ったのかも知れません。

ワシらは、意識しているかどうかに関わらず、 自分の半分を否定し、それを自分の中に隠して、 もう半分の良い方の自分を表向きに演じて生きているようです。
ネガティブなものをバネにポジティブに生きようとするーー ─ そうやって人間はバランスをとっているのでしょうか。
しかし、その自分の中に隠した「自己否定」というものが、 いじめの元になっているような気がするのです。

子供がどうして自分を否定するようになるのか?
 ワシの場合、そのきっかけは親との関係性にあるようです。
親は、言う事を聞かない子供、 つまり自分がコントロールできない子供を見たとき、 彼らの"行為"に善悪のジャッジをして「悪い子」だと言って叱ります。
逆に、言う事をきく子、コントロールできるは「良い子」だと言って褒めます。
そうやって、躾をするなかで、子供の"存在"とは全く関係の無い"行為"で、 良い子・悪い 子のレッテルが貼られます。
一方、子供は親の愛に非常に敏感ですから、 親に褒められれば自分は愛されていると安心し、 叱られると「自分はダメだ、悪い子なんだ」 「愛される価値がないんだ」とまで思い込んでしまいます。
子供がどんなに明るく活発に振舞っていても、 逆に、大人しく引きこもりがちでも、 心の奥底にはどんな強烈な自己否定を持っているかは計り知れません。
そして、同じ質の自己否定を持つ二人が磁石のように引き合うと 「いじめ」が生まれるようです。

 

ある日、そんな二人が出会ってしまいます。

会った瞬間、何かを感じるのです。
 一人は自分を否定し、自信がないまま生きている。
もう一人は自己否定をバネにしている強く活発な人。
同じ自己否定というひとつのエネルギーが、表面上、マイナスとプラスに分かれたような感じです。
そして、活発な子が自信の無い子をいじめ始めます。

これって、大人になってもパターンは同じだと思いませんか?

「いじめ」のパターンが変化して、「指導」「攻撃」「教育」・・・名目は変われど、構造は同じに思えます。

  この活発な子は自分の中に“強烈に嫌いな自分”を持っており、
その「見るのも嫌な自分」を相手の中に感じてしまうために、無性に攻撃したくなるのではないでしょうか。

「こいつショボイ、ウザイ」「死んだ方がマシ」・・・

それは相手に出しているようで、実は自分自身の隠されている半分に向けてると言えましょうか。

まさか、相手のものだと思っていたものが、自分のものだとは夢にも思いません。
ワシらはそれほど、自分が強烈に嫌っているものを心の奥底に抑え込んで、自覚の無いまま生きているわけです。

例えば、もたもたして支度に時間がかかることを親に度々叱られ、それをバネにしてテキパキ要領よく行動できるようになった人は、
自分の目の前にもたもたしている子が現れると無性にイライラします。
最もダメな自分や、親に叱られた時の辛かった感情や罪悪感など、自分のマイナス的なものを相手を通して感じてしまうため、
見ているだけで腹が立つというわけです。

いじめの理由が、なんとなく気に入らない、気持ち悪い、見ているだけでムカつく、ワガママだから…など、曖昧なものが多いのも、
自分では自覚していない嫌な自分を見ているからだと言えましょうか。

また、いじめられる子も自分で自分を否定し、いつも自分をいじめています。

だから、いじめっ子を引き寄せるのですね。

いじめられる子もいじめる子も、そのエネルギーの源泉は同じ「自己否定」なのですね。
 ワシらが見ているあらゆる事象は表面的なものであり、それをつくりだしているものが奥に潜んでいます。

 

その闇を見なければ、ワシらは本当に解放されることはないように思えます。

相手に見えているものは、実は自分自身だった・・・ビックリですが本当のことのようです。

澤田さんは、ワシで、ワシは、澤田さんやった。  ビックリ現象!!

 

 自分を赦し、自分を大事にし、自分を肯定する。

「神様が宿る家」とは、「私」というかけがえのない、宇宙でたった一つのこの身体のことかも知れません。

だから、自分を愛するということが、神様を愛することになるのでしょうか。

人生54年生きて、生かされて、そんなことふっと思う今日です。

 

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