赤塚高仁ブログ

にんげんクラブ その2

2013.11.08

我が国とユダヤ

 

イスラエルは、いろいろな意味で日本と対極にある国だと言えましょうか。

国土の六〇%が砂漠の国、アブラハム、モーセ、イエス、パウロ・・・みな砂漠で神と出会い、神の声を聞いています。

砂漠でたった一人、星空を見上げていると、人間界、あるいは生物界を超越した宇宙を支配する絶対的なルールを体感するのでしょうか。

聖書の「神」と、日本人が感じる「神」とは現れ方違うのかも知れません。

大本はおなじでも、環境、歴史、文化が違えば現れ方は違って当然でしょう。

そこを、理解しないと聖書は読めないように思えます。

私も二九歳で初めてイスラエルを訪ね、その後十度、導かれて聖書の地を歩き、足の裏で聖書を読んできました。

ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもない私が、聖書に書かれている「神様との約束」を知るまでに、ずいぶん時間もかかりました。

ユダヤ人の宗教であろう聖書の信仰が、日本人にわかるものではないと思っていたからです。

ところが、知れば知るほどヤマト人とユダヤ人、違いよりも共通点があまりに多いことに気がつかされ衝撃を受け、私自身が変えられてゆきました。

そして、ヤマト人とユダヤ人とは、まるで双子の兄弟のようにも思えてきたのです。

ひとつ例をあげましょう。

御柱祭で名高い信州の諏訪大社では、古来「御頭祭」という祭りが行われてきました。

この祭りでは、十五歳未満の少年が神の使いとしての役割が与えられました。

この少年は、柱に縛りつけられ、生贄とされるのです。

少年を柱に縄で縛りつけて、人々は柱ごと竹のむしろに押し上げて、そこには刃物も登場します。

そこに神官が現れ、縛られていた少年は解き放たれるというのです。

今では、少年を縛りつける風習はなくなってしまったようですが、生贄の柱の風習は残っているそうです。

少年の代わりに捧げられた生贄は、鹿です。

諏訪大社に鹿の首が並べられていますが、ヤマト人には生贄の風習がないのに不思議なことです。

しかも、中に耳が裂けている鹿があり、特別なものとされたようですが、「やぶに角を引っ掛けていた雄羊」の耳が裂けていたのかも知れません。

これらの行事が執り行われる諏訪大社の御神体は、山であり、その名を「守屋(モリヤ)」といいます。

まるでアブラハムとイサクの物語が、ヤマトの信州、縄文の国で伝承されているかの如き祭りです。

 

PAGE TOP