赤塚高仁ブログ

お正月二日

2014.01.01

 今朝から、聖書を読む早天祈祷会が始まりました。

ワシの聖書の先生、高橋先生は、大連生まれの81歳。

世界中でキリストの伝道をし、17年前に三重に来られたのでした。

イスラエルにおられたときに、糸川博士とも会っていたり、縁というのは不可思議なものです。

 

 さて、早天祈祷も2年つづき、旧約聖書、ホセア書に入りました。

ここから14人の預言者がでてきますが、それぞれ神の声に聞き従い、それを書き記したすごい人物です。

いや~ ホセア書3章、泣かされました。

それを読んだのちに今日から、ヨハネによる福音書。

新しい年の始まりに、神さま よくぞご用意してくださったと感謝で感極まりました。

 

 

  

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。
それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。
わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。
「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。
彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。

 

  何十回読んだか知れません。

しかし、今日は特別胸にしみました。

ホセア書、旧約聖書と合わせ読みするとき、新約の持つ大きな意味が分かるようになりました。

洗礼者ヨハネを通して、イエスまでの預言者の存在の意義が魂に響きます。

 

 全人類に届けられた、奇跡の本、聖書を一人でも多くの人に伝えたいものですね、今年は。

 

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