赤塚高仁ブログ

戻りました、日常に

2014.10.19

 4年前、ただ連れられるままに出かけていったパラオ。

サンゴ礁のダイビングのポイントくらいに思っていた南洋の島が、私の人生でかけがえのない場所となりました。

オレンジビーチの砂を大切に持っていた上島先生は、軍医として三重から出征していった中でペリリュー島唯一の生き残り。

水屋神社の久保宮司は、島を守った英霊たちの慰霊のため、ペリリュー島にさざれ石を贈った国士。

4年前は、上島先生の遺影を抱いてゆき、

今回は、久保宮司の遺影を抱いていきました。

いったい私は、どんな縁があったのでしょうね、過去世で。

13名の慰霊団は、きっと深い縁で結ばれた魂同志に違いありません。

 

 4キロ四方ほどの小さなペリリュー島が、昭和19年9月米国太平洋艦隊に取り囲まれました。

日本が作り上げた、当時東洋一の十字滑走路を奪うためです。

このちいさな島、ペリリューの戦いは、米国にとって恐ろしいほどの被害を与えた、日本の凄さをいやというほど知らされた戦いになりました。

彼らは、ペリリューに手を出したのは、間違いだったとも言っています。

それほどまでに、強かったのです。 中川洲男大佐率いる水戸第二師団始めとする守備隊は。

「聖なる約束」にこんな風に書きました、一部引用します。

 

・・・・戦後、国民に対して日本は悪いことをしたひどい国だったという教育が徹底的になされ、戦地で命をかけて戦った人たちはまるで犯罪者のように扱われました。

そして、戦争の話をすることはタブーとされてしまったのです。
 そんなところから帰って来られたなんて、上島先生はどれほど壮絶な体験をなさったことでしょう。

日本のために命をかけ、多くの同胞の失い、どれほどお辛かったことでしょうか。

しかし、先生はペリリュー島であったことを家族にも話すことはありませんでした。

 それでも、先生はもう一度パラオに行きたいと強く強く願っておられました。

しかし、願いもむなしく天に帰ってゆかれました。そんな先生の思いを知った御遺族が遺骨を抱いて、日本から南に約四千キロ、西太平洋に浮かぶパラオ共和国を訪ねる際、私も同行させていただきました。

 フィリピンとニューギニアの中間に位置する「パラオ共和国」は大小200の島々からなる世界190番目の独立国です。

スペイン領からドイツによる統治へ、第一次世界大戦後は三十年間日本による委任統治が行われました。
日本は、台湾や朝鮮と同様に、統治する先にインフラ整備をはじめ教育、医療施設の整備を行い、パラオの生活水準の向上を推し進めました。

いまでも年配の方々は、実にきれいな日本語を話されます。
島のために汗を流した日本人をパラオの人たちは尊敬し、子供に日本人のような名前をつけました。私が乗ったタクシーのドライバーの名前は「海一郎」さん、日本海軍のように強い人になってくださいとおばあさんがつけた名前だと言います。

パラオの人たちにとって日本人は、平和だった島に恐ろしい艦砲射撃と空襲を仕掛けてくる米軍を迎え撃って、彼らの祖先の島を守るために死んでいった立派な人。

そうした記憶しかないのです。

それが、島に満ちている日本人に対する思いであり、そこから感じられる波動でした。

本島から一時間半余り南へモーターボートを走らせると、緑濃き平坦な島影が見えてきます。うっそうと繁ったジャングルは、日米決戦の前の姿に戻っているようでした。

昭和19年、まさに大東亜戦争末期、米軍はフィリピン奪還の足場とするために、この島に日本軍が造り上げた飛行場を奪取しようと攻撃を仕掛けてきました。
中川州男大佐率いる島の守備隊は、日清、日露戦争でも名高き水戸歩兵第二連隊を中心にした一万千人。

対する太平洋艦隊の最強部隊第一海兵師団ほか四万八千人。

マリアナ諸島攻略戦の余勢をかった米軍は、「激しい戦いになるだろうが、多分我々は三日で終える。二日間だけかもしれない」と言っていたそうです。

この戦闘に先だってペリリューの島人たちは、日本と共に先祖の島を守るために戦いたいと中川大佐に進言しました。ところが、なんと予想外にも中川大佐はこう一喝したのです。

「帝国軍人が貴様ら土人と戦えるか!」

島人たちは、日本人もやはり白人と同じように自分たちを見下していたのか、信じていた友情は見せかけものだったのかと失望したといいます。

失意の中、島人たちは用意された軍艦に乗ってパラオ本島に向かって出発しました。ところが、なんということでしょう。

もう島には泳いで帰ることは不可能という所まで軍艦が離れるのを確認するや、中川大佐はじめ日本兵たちがジャングルから浜辺へ続々と現れ、笑顔で手を振って見送ってくれるではありませんか。
島人たちは、中川大佐があんなことを言ったのは、自分たちを救うためだったと悟ります。こうして、島人の被害は皆無となったのでした。

さて、中川大佐はこれまでの万歳突撃の戦法を改め、五百箇所ほど洞穴を堀り、徹底的な持久戦を戦い抜く作戦をとりました。洞穴の一番大きなものの延長は九〇メートルもありました。
九月十五日、日本軍は、一斉に上陸を始めた米海兵師団を狙い撃ちし、米軍は五千人の死傷者を数えました。

その浜辺は、鮮血でオレンジ色に染まり、その様子からオレンジビーチと呼ばれるようになったのです。

医師の机の上にあったオレンジビーチの砂の意味が、ようやくわかりました。

悲しいほどきれいなエメラルドグリーンの海でした。

塹壕の中に入ってみると、真っ暗闇の中、懐中電灯の灯りに照らされた先には、ついいましがたまで日本の兵士たちが居たかのように食器や空缶が転がっていました。

上陸に先立ち米軍が打ち込んだ爆弾は十七万発、日本軍の艦隊も航空機も壊滅状態です。
軍艦、輸送船約五〇隻が珊瑚の海に沈んでいきました。制空権も制海権ももはや日本軍にはありません。食料も救援物資も武器弾薬も補給は一切ないのです。

しかし、日本の守備隊は塹壕に潜み、耐えに耐え七十一日間戦い抜きました。天皇陛下は毎朝「ペリリューは大丈夫か」と御下問され、守備隊に十一回もの御嘉賞を下賜されたといいます。

ペリリューが「天皇の島」と呼ばれる所以です。

弾も尽き果て、刀折れた十一月二十四日、中川大佐は最後に「サクラ サクラ」と打電し司令部壕の中で自決、戦いは幕を下ろしました。

米軍も八千もの死傷者を出した大東亜戦争で最も烈しい戦場の一つが、このペリリュー島だったのです。

ペリリュー神社の石碑にこう刻まれていました。
「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ・米太平洋艦隊司令長官 CWニミッツ」

米軍上陸の直前に島民を避難させ、自らは玉と砕けた日本軍将兵たちは、島の住民にとって「英雄」だったのです。

戦い済んで島民たちがペリリュー島に戻ってみると、そこには海に水漬き、山に草生した一万余二千の日本兵の屍がありました。

島の日本人墓地は、日本人がこんな姿を見たらかわいそうだと、ペリリューの島の人たちが、日本兵の遺骨を拾い集め、葬ってくれたものです。

墓標には、ゼロ戦のプロペラもありました。島の酋長はこう言っておられます、「この島に眠る日本軍の将兵の御霊は、私たちの島を守ってくださった神様だと思っています。

私たちが立派に守ります。どうぞ御安心ください」と。

中川大佐が自決した洞窟には、今も花が絶えることがありません。島の人たちが弔ってくださっているのです。英霊たちは、観光団ではありません。

祖国日本のために戦い、大切な人、大事なことを守るため日本から遥か離れた南の島で死んでいかれたのです。

高射砲が据えられた崖に、こう書かれていました。若い兵士の文字でしょうか。

「父母ノカオガ見タクテタマリマセン」

どんなにか帰りたかっただろう、ふるさと日本に。英霊たちの願いは、今日本の人々に届いているでしょうか。

ジャングルを歩いていて、草の中に大きなかたまりを見つけました......朽ち果てた零戦です。主翼にうっすら日の丸が見えます。

みんなでふるさとを歌いました。
「志を果たして、いつの日にか帰らん」未だ帰れぬ数千の英霊たちの念いが一気に胸に飛び込んできました。

みんな泣いていました。

今から二十年前にパラオが独立する時、国旗を定めなくてはなりませんでした。

全島からデザインを募集したところ、七十点ほどの秀作が集まりました。その中で、選ばれたのが青地に黄色い丸、月章旗と呼ばれるデザインです。
この旗に決まったのは、日の丸に一番似ていたからなのだそうです。周囲の青は海を意味します。

日の丸の部分が黄色いのは、月を現します。月は太陽がないと輝くことができない、つまり、月は太陽によって支えられて生命を持つのです。

太陽と言うのは、日本のことです。パラオの人々は、戦争中に日の丸を掲げ、強力な米軍と戦った日本軍に尊敬を捧げ、日本に心から感謝してくれています。

一万もの英霊たちは、勇気と国を思う心があれば、誰よりも強くなれることを教えて死んでいかれたからです。

パラオの国旗を広げると、月の丸が中心からずれているのがわかります。

日いずる国の日の丸に対する敬意と愛情が胸に沁み込んでくるではありませんか。

なんと、私たち日本人がこのことを知らないのです。私たちヤマト人が祖国を誇らなければ、祖国のために命を捧げてくださった英霊たちに申し訳が立たないではありませんか。
「自分の命は大切である、しかし、自分の命よりも尊いものがある」と教えられた世代との距離が遠くなりつつあります。
あの時代、自分の命より尊いものとは、一つは「国」であったのでしょう。

「命は誰かのために使うもの」と、糸川英夫博士は教えてくださいました。

生きているということは、誰かにお世話になっているということ。
 生きてゆくということは、それをお返ししてゆくこと。

これは決して戦争賛歌ではありません。
たくさんの尊い命が、今の日本を築いてくれた、私たちの命をつないでくれたことを真摯に受け止めることが、大切なことだと思わされているのです。

・・・・引用ここまで

 

  来年四月に、天皇陛下がパラオを訪問されます。

陛下がそのことを言挙げされた時に、その霊的な癒しはパラオに飛んだに違いありません。

4年前と全く違うのです、島の波動が。

いま、地球上で最も霊力の強い祭司、それは間違いなく日本国の天皇です。

その祈りの力が、これほどまですごいとは!! 私は、今回ペリリュー島でそれを体感できただけでも猛烈に幸せです。

 

 二日間のパラオ共和国滞在でしたが、魂に大きな恵みをいただきました。

さあ、 また明日から仕事という名の宇宙が待っています。

喜ばせごっこ、 顔晴って歩きます。

 

 

 

 

 

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