赤塚高仁 物語

3.赤塚組起業

次良と知子は、見合いで出会った。
両方とも何度も見合いをしていたが、それまで結婚に至らなかった。
次良は気ままな生活を謳歌していたかったのだろう。
知子は見栄と体裁上、社会的地位、学歴の高い社長の御曹司、医者、政治家らと見合いさせられ続けていたようだ。
それとも、2人が出逢うべくして出逢うまで、時を待っていたのか。
2人は見合いをし、好き合った。
祖母は、ヤクザな水商売のような稼業の男に優秀な娘はやれないと言ったそうだ。
死ぬまで祖母は、次良が行くと「知子は最後にカスをつかんだ」と言った。
それを黙って聞いていた次良は、すごい。
さて、津工業高等学校の建築科を卒業していた次良は、建築屋になると祖母に宣言し、芸能界から足を洗った。
建築に対する情熱や、住宅への想いの深さと言うよりも、好きな女性と一緒になるための方便のような起業だったようだ。
行き当たりばったりの赤塚高仁の性格は、父の遺伝子に影響を受けているのかも知れない。

30歳を過ぎての建築業、大工になれるわけでもなく、とりあえず素人が創めた建築屋、中途半端と言われても仕方あるまい。
しかし、時代が良かった。
カンバンをあげたらお客はあった。
お客があれば、大工も行列して店の前に並んだ。
赤塚高仁が生まれた昭和34年は、伊勢湾台風の年。
仕事は、どんどんやって来た。
家ができると、お客は感謝状をくれた。
会社には、感謝状が並んだ。
とりあえず、中途半端な工務店は成長する時代の波に乗って流れてゆく。
「会社は大きくするな。大きくするのはアホでもできるが、大きくしたものを小さくするにはアホでは無理」「商売は、牛のよだれのように。ダラダラ細く長く」父から聞いた経営の哲学は、このようなものだった。
赤塚高仁の経営方針は、父の遺伝子に影響を受けているのかも知れない。

 

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