赤塚高仁ブログ

ジャングルの奥に最後の砦が

2019.07.07

初めてペリリュー島に渡ってから10年の時が過ぎました。
日本中で語り伝えてきました。

本に書きました。

DVDに収録して広めてきました。

そして、
話を聞いた人たちが、
行ってみたいと願ってくださり、
56名の仲間と共に今回のツアーが実現しました。

私は、「語り部」です。
そして、
バトンを受け継ぐ「後継者」なのです。

ところで
「先生」には3種類あります。
一つは、
「メンター」
本田健さんや來夢先生が思い浮かびます。
向き合うことで、
自分自身を見つめ、成長を促される。

次は、
「ティーチャー」
舩井勝仁さんがすぐイメージされます。
知識を与えてくれる大切な人。
生徒は、
先生と向き合うのではなく、
黒板を見ているという特徴がありますね。

そして、
「ガイド」
人を導いて、そばに立って
行先を指差します。
伝道師パウロがそれであり、
私もこのタイプなのです。

「ガイド」の原型の濃いアカツカは、
今回のペリリュー島でも新しい道を歩き、
ツアーの新境地を拓くことができました。

現地で「ラストコマンド」と呼ばれる、
最後の砦にたどり着いたのです。

現地案内を頼んでいるガイドさんから、
「赤塚さん、中川大佐が自決した場所へ行く道が出来ました。」とペリリュー島に向かう朝、
聞かされました。

「サクラ サクラ」

中川大佐が最後の電文を打電したところには、
「終焉の地」の石碑があります。
山道を歩いて、
その地に赴くだけでも大変なこと。
そこからまだ奥地に進み、
中川大佐は一切を背負って割腹したのだと、
アメリカの探検家が見つけたのだそうです。

私にとっても未知の領域、
そこへ60人近くの仲間を連れて行って良いのか?
一瞬躊躇しましたが、
心を決めて島に上陸しました。
すべて、「みたま」にお任せしようと。

ペリリュー島まで来てくれた仲間を、
島に眠る幾千の英霊たちが、
暖かく優しく迎えてくれます。
墓地で泣き、平和記念碑で「ふるさと」歌って涙を流し、ペリリュー神社での慰霊祭では、
北九州 岡田宮の波多野宮司が魂をうち震わせる祝詞を奏上してくださいました。

そして
ラストコマンドに

歩いて歩いて汗が滴り落ち
息が上がって
ほんの少しだけ後悔の気持ちが湧いたとき、
たどり着きました

数人の護衛を連れて
中川大佐が立てこもった岩の砦

小さな谷を越えて、
砦に登ると、
聖なる風が吹いてきました

同時に
戦い守り抜いて
最後の時を迎えた中川大佐の
潔くも涼やかな念いが
私の心に流れ込んできました。

「語り伝えてくれ」

永遠の48歳 中川州男大佐

旅の仲間の胸にも同じ気持ちが去来したのでしょう。
みんな泣いていました。

そして、
ラストコマンドにほど近い洞穴
そこはなんと
医療壕

武田所長と入ってみました
すると
私をペリリュー島に導いてくれた
軍医だった上島英義先生の声が聞こえるではありませんか!

「アカツカくん
よおきてくれたな」

同じところを訪ねても
いつも聖なる一回限りの芸術

同じだけれど、違うのです。

どこにいくのか 以上に
だれといくのか

語り伝えて参ります。
そして、
ガイドは導き続けます。

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