赤塚高仁ブログ

大人の修学旅行 パラオ

2019.07.06

初日 コロール島観光
それから、ガイダンス

赤塚高仁

中村文昭

武田数宏

「知ることの深さは
愛することへの道」

ペリリュー島のことなど何も知らずに生きてきた私たち。
でも、
今の暮らしは、
先人たちが命かけて守り抜いてくれた、
美しい日本があるからです。

白地に赤く日の丸染めて・・・
日本の国旗の歌ですが、青地に黄色い月の丸をデザインした旗をご存知でしょうか。
西太平洋に浮かぶパラオ共和国の国旗なのです。

スペイン、ドイツ、日本、米国と統治されたパラオが独立する際に、太陽(日の丸)に照らされ輝く満月のような国となろうという願いを込めて生まれた国旗です。

「月章旗」

そう呼ばれています。

日本は31年間のパラオ統治時代、
電燈を灯し、道路を敷き、病院や学校を作りました。
島の人々は、日本を愛し、今も多くの人が日本語を話します。

自虐史観の中で、パラオのことが知らされることはほとんどありませんでした。

9年前初めて私はペリリュー島に渡りました。

 それは、ペリリュー島から三重県人として唯一の生き残り、上島先生の遺骨を抱いての旅でした。

オレンジビーチの砂を大事にしていた小児科医、上島先生に依頼され、私が観音堂を建築したのがご縁でした。

もう一度、ペリリュー島に行きたいという、願いもむなしく亡くなった上島先生の遺骨を、かの島に散骨するためご遺族と一緒に行きました。

まずパラオ本島からモーターボートで一時間弱、幅三キロ、長さ九キロのペリリュー島向かいました。

着くとすぐ塹壕に案内されました。

500箇所ほどある洞穴の中でも一番大きなもので、石灰岩をくりぬいた延長は90メートルもあり、壁は焼け焦げていました。

真っ暗闇の中、懐中電灯の灯りに照らされた先には、ついいましがたまで日本の兵士たちが居たかのように食器や空缶が転がっていました。

大東亜戦争末期、昭和19年9月15日、4年がかりでペリリュー島に日本軍が作った飛行場を奪うために、米軍は島を取り囲んだのです。

兵力はおよそ4万2千。
上陸に先立ち米軍が打ち込んだ爆弾は17万発、日本軍の艦隊も航空機も壊滅状態となり、軍艦、輸送船約50隻が珊瑚の海に沈んでいきました。

しかし、12000の日本の守備隊は塹壕に潜み、米軍上陸に備えたのでした。

三日で攻略すると豪語して上陸してきた米兵を狙い撃ち、刀で斬りかかり、10メートルの距離での白兵戦、両軍の兵士の血で真っ赤に染まった浜辺はオレンジビーチと呼ばれるようになったのです。

三ヵ月近くも持ちこたえたが完全に補給も途絶え、弾も尽き果てた日本軍は最後

「サクラ サクラ」

と打電し玉砕、司令官中川大佐は11月24日自決、戦いは幕を下ろしました。

米軍も八千もの死傷者を出した大東亜戦争で最も烈しい戦場の一つが、このペリリュー島だったのです。

ペリリュー神社の石碑にこう刻まれていました。

「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ・米太平洋艦隊司令長官 CWニミッツ」

 戦いの前に、日本軍は軍艦で島の住民をすべて安全なパラオ本島に避難させました。
中川大佐は、日本の為に戦うという島民たちを説き伏せ、彼らを守るため避難させたのです。

戦い済んで島民たちがペリリュー島に戻ってみると、そこには海に水漬き、山に草生した一万二千の日本兵の屍がありました。

米国は米兵の遺体を収容しました。
しかし、彼らは我が国の英霊たちの遺骨を顧みることはありませんでした。

ペリリューの島の人たちが、日本兵の遺骨を拾い集め、墓を作り葬ってくれたのです。
中川大佐が自決した洞窟には、今も花が絶えることがありません。
島の人たちが、勇敢に戦った日本軍に敬意を表して花を手向けてくださっているのです。

英霊たちは、観光に来たのではありません。
祖国日本のために戦い、大切な人、大事なことを守るため日本から遥か3000キロも離れた南の島で死んでいったのです。

どんなにか帰りたかっただろう、ふるさと日本に。

英霊たちの願いは、
今日本の人々に届いているでしょうか。
ジャングルを歩くと、朽ち果てた零戦がありました。
主翼にうっすら日の丸が見えます。
主脚の錆を落とすと銀色に輝くジュラルミンが出てきました。
みんなでふるさとを歌いました。

「志を果たして、いつの日にか帰らん」

未だ帰れぬ数千の英霊たちの念いが一気に胸に飛び込んできてみんな泣きました。

昭和天皇は 「ペリリュー島は大丈夫か?」と常に気にかけておられ、11回も下賜を贈られたのです。
ペリリュー島が、天皇の島と呼ばれる所以です。

平成の天皇・皇后両陛下がパラオを、ペリリュー島を慰問してくださいました。

天に還った英霊たちが、日本の守護神として天より働いてくださいますよう、魂から祈ります。

私は
毎年慰霊に来る、と決めました。
そして、令和元年
同志、中村文昭、武田数宏所長と共に来ることができました。

今回は、北九州、神武天皇ゆかりの
岡田宮 波多野宮司がペリリュー神社で慰霊祭を執り行って下さいます。

全身全霊で祈って参ります。

「ありがとうございます!」
そして

「日本よ永遠なれ!」と叫びます。

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