赤塚高仁ブログ

伊勢の灯篭

2018.04.27

 伊勢神宮に続く御幸道路の両脇には、
 石の灯篭が並んでいます。
その数、約600

 伊勢にお客様を案内する時、
この灯篭に刻まれている菊の御紋とダビデの星を見てもらいます。
不思議ですが、すべての灯篭に刻まれています。
もっと不思議なのは、そのデザインの由来を誰も知らないということです。

ヤマトとユダヤの関係を語りたいところですが、
それほど古くからある灯篭というわけでもないのです。
それより、エルサレムの城壁にある菊の紋章の方が不思議だったりします。

 ところで、この前の式年遷宮の際、老朽化した灯篭の対策を
伊勢市も三重県も考えていました。
50年ほど前から建てられたもので、所有者のわからないものもあります。
建立した人の名前が刻んであるのを、一本一本チェックする仕事を、
私の友人が請け負ったことを思い出します。

先日、この灯篭にバスが接触し、崩れた石に当たって死亡事故が発生しました。
80歳過ぎの男性とのことですが、ご冥福をお祈りします。
そのタイミングで、そこを歩いておられたというのも運命なのでしょうか。

ニュースでは、これを機に600近くあるすべての灯篭を撤去するとのこと。
「道路の不法占拠」と言っていました。
確かに、古くなっているうえに、明らかに傾いているモノもあり危険ではあります。
何とかしなければいけないのは、事実でしょう。

 切り取られたこのニュースだけみると、「過剰反応」ではないか、と思ってしまいますが、
ずいぶん前から撤去したいと思っていたようです。
そのために、すべての灯篭の所有者を調査し、それぞれ通達もなされていたはずです。

しかし、なかなか実行に移すことができませんでした。
それぞれの所有者に、それぞれの言い分がありますから。

事故を「きっかけ」に全てが撤去されることになりました。

新しい灯篭が建つのか、
もし建つのならどんなデザインになるのか、
それはまだ分かりませんが、平成30年に伊勢でも大きな変化が始まったわけです。

 ものごとは、「きっかけ」というものが必要なようです。
今回の灯篭の一件は、死亡事故がきっかけでしたが、
人間関係においても、何かの出来ごとで大きく関係性が変わったり、
あるいは終焉を迎えたりするとき、多くの場合それは「きっかけ」に過ぎず、
実はずっと前から小さな終わりが積み重なってきたのでしょう。

 ちょうど、一杯になったコップの水が、
最後の一滴で一気に溢れだしてしまうように・・・

 どうしても最後の一滴に意識が向いてしまいます。
大きな事故に目が行きがちです。
でも、それまでにいくらも軌道修正できたり、終わらせることもできたに違いないのですが、
なにもせず、手をこまねいて、
時の過ぎゆくままに身を任せてしまう。
そして、私たちは「きっかけ」を心のどこかで待ち望んでしまう。

「きっかけ」は私たちの願いが叶った瞬間と言えるのかも知れません。
 一見、崩壊に見えるような出来事であっても、
実は、私たちの願いを聞き届けてくださった神からの「恩寵」と思えます。

神も仏もあるものか、と言いたくなるような場面でこそ、
大きな神の御手が働いているという事実をこれまでも何度も体験してきました。
だからこそ、
私たちは、どんなときにでも、
一瞬たりとも私たちを見放したりはしない、見えざる神の手を感じていなければならないのです。

 灯篭の事故、そしてすべての撤去・・・
そのニュースを見ながら、私はそんなことを考えさせられていたのでした。

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