赤塚高仁ブログ

志多ら

2018.01.24

人生には忘れてはならない恩人があります。
わたしにとって、恩師・糸川英夫博士とのご縁をつないで下さった吉村信介さんがその一人です。
和太鼓のプロ集団「鬼太鼓座」の当時のマネージャーでした。

 鬼太鼓座との出逢いこそが、私の人生を根っこから変えてくれました。
その鬼太鼓座のDNAを継承し、やまとのこころを伝え続けている和太鼓集団「志多ら」
津にやってきます。
三重ふるさと新聞に寄稿しましたのでご紹介します。

「 やまとこころの響き
         赤塚高仁

 三重ふるさと新聞立ち上げを応援する会が催されたのは、1997年のことであった。
津の素晴らしさを再発見し、また、ふるさとを元気にする新しい新聞の門出を祝い、仲間が都ホテルに集った。
そのとき駆けつけてくれたのが「鬼太鼓(おんでこ)座」であった。
現在四千以上ある和太鼓の集団のルーツともいえる伝説のグループである。
ふるさと新聞創始者、西田氏への友情出演であった。
誰もが周りとの会話に夢中で、騒々しい空気の中、彼らは特設の舞台に上がった。
「ぱん!! 」
一発の締め太鼓が会場に響き渡ると一瞬にして場の空気が変わった。
「ドン!」大太鼓の音に全員の心が舞台にくぎ付けにされ、魂が鷲掴みにされた。
皆がひとつになってゆく。
和太鼓には、やまとこころのスイッチをオンにするエネルギーが満ちていた。

 私が、鬼太鼓座と出会ったのは今から30年前のことだった。
当時のメンバーであった吉村信介氏と友人になり、彼から太鼓のことを教わったのがきっかけだった。
「太鼓は叩いた力でたたき返される。
だから、太鼓打ちは太鼓に叩かれているんだ」と彼は言った。
叩く力と受け止める力を持ち合わせるために、彼らは毎日30キロ走った。左右の手が同じように使えなくてはいけないからと、利き手と反対の手で箸を持ち食事をした。日常のすべてが修行だった。
私は、そんな太鼓打ちに惚れた。走るのは無理だから箸だけ真似した。

 そんなある日のこと、信介さんが「糸川英夫博士のお宅に行くけど、一緒にどう?」と私に言った。
「え、あのロケット博士?!是非連れて行って!!」私はついていった。
そのときの出逢いが人生を根っこから変えることになるのだから、運命というのは不思議だ。
糸川英夫博士はその日、29歳の私に話してくださった。
「世界の科学者たちが私に言います。日本は真似をして儲けるのはうまいが、独創的なものは生み出さない。まるでブラックホールのような国だと。私は悔しかったが、経済優先の日本を擁護できずにいました。でも、まさに和太鼓こそ日本が発信する独創的なエネルギーであり、日本の魂だと。希望の光だと確信しました。だから、私は和太鼓をイスラエルに持っていきユダヤ民族へのレクイエム(鎮魂)として捧げようと考えているのですよ。ヤマトの民とユダヤ民族が手を結ぶとき世界が平安へと導かれるというビジョンが私には見せられたので・・・」
和太鼓は、民族を超えて響きあえる「超言語」なのである。
私は、糸川博士のビジョンに魅せられ、弟子にしていただいた。

 やがて、吉村信介さんは、兄、城太郎さんと鬼太鼓座の遺伝子を継承しながら新しい太鼓の集団を立ち上げた。
愛知県北設楽郡東栄町の廃校になった小学校を拠点に新メンバーと共に移住していった。
昔から日本では、太鼓をうまく打てる者を「したら」、打てないものを「ふしだら」と呼んだ。
志の多き仲間の集い、その名も「志多ら」が誕生したのは1990年のことであった。
 志多らは、地域に根差し、東栄町の国の無形民俗文化財・花祭りに「志多ら舞」を奉納するなど地元に溶け込んでいった。
志多らは、「祭りとは何か?」と問い続けながら曲を生み、舞台に立ち続けた。
やがて、祭りこそ地域のアイデンティティを守り、人にとって最も大切なふるさとを守ることなのだと知った。
そして志多らは、守るだけではなく新しいアイデンティティを創造することがふるさとを守り、国を大切にすることにつながってゆくのだと気づいてゆく。
そのことが人の心を豊かにし、人を強く、そして優しくするのだと思った。
志多らの創作した曲は、私たちを魂のふるさとに誘う。
 その志多らが津にやって来る。

彼らの太鼓の響きを魂にうけて、やまとこころに火を灯しませんか。
激変する時代の中で、変わらない本当のことを志多らは私たちに伝えてくれます。」
(引用ここまで)

2月12日三重県総合文化センター
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彼らに出会ってください。
 
 和する心が魂に湧き上がってくることでしょう。

 
 

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