赤塚高仁ブログ

曽野綾子さん「老いの僥倖」

2017.10.19

 僥倖(ぎょうこう)・・・思いがけない幸せ

 「老いのうまみを味わわなければ、生きてきた甲斐がない」
幻冬舎から、
「年を取ることが楽しくなる極意」という本の広告が新聞に載っていました。

産経新聞で、曽野綾子さんの文章があれば真っ先に読みます。
私は、曽野綾子さんのファンです。
人間として、本当のことを語ってくださる数少ないヤマト人のひとりです。

見出しがズラリと並んでいますが・・・

・年を取るおもしろさは個人の変貌にある

・体力が落ちるにつれて、心の動きは活発になる

・人生には立ち止まる時がなければならない

・あせらず待っていれば、やがて解決する

・「許す」ということほど人生で難しいことはない

・老年になると、人間の弱さが痛いほどわかる

・肩書のない年月にこそ人は自分の本領を発揮できる

・人は会った人間の数だけ賢くなる

・嫌われたら嫌われたで、いいこともある

・くだらないことを喋れなくなったら、老いぼれ

・人間はいくらでも間違えるものである

・見た目の幸不幸にだまされない

・文句も言わず損ができるか

「大丈夫でないときは、死ぬ時だけ」・・・などなど、曽野綾子節が炸裂です。

老いることは苦しみである、と言ったのは仏陀でした。
それを「僥倖」と言い切る人があるわけです。
五木寛之さんも、同じような視座で文章を書いてくださいます。
読むとしみじみ「そうなのかぁ~」を思わされます。
青春の門の五木寛之さんが老人なのか・・・

 でも私は、この本は買わないでしょう。
なるほどなぁ、とうなずきつつ、老いることを受け入れられない私がいます。
僥倖とは思えません。
腹が立ちます。
メガネなしで本も新聞も読めず、
補聴器電池が切れたら日常会話もできない、
どんなに疲れていても夜明け前に目が覚める・・・

 若さが恋しく、懐かしいです。
あと一年と少しで還暦だなんて受け入れられません。
黒い髪が取り戻せるものなら、と考えても意味ないことを考えます。
古今東西、誰もがみな通る道なのでしょうか。
で、なければ健康産業も、化粧品業界も成り立ちません。
若くありたいのです。
老いるのは苦しみです、幸せなどではありません。

駿馬も老いては、駄馬にも劣る。
しかし、
人間は、馬と違う「智慧」があります。
その智慧を得たものにとっては、老いること、すなわち肉が弱ることが「益」になる。
肉が主の人生から、霊が主の人生へとアセンションするのです。
それこそが「僥倖」ではありませんか。

 聖書の「ヨハネによる福音書」は、老年になってヨハネが書いたもので、
イエスが最も愛した弟子の言葉の中に、老いも、死をも超えたヨハネの心がうかがえます。
曽野綾子さんの心境も、ヨハネに似て、
キリストの信仰にあって到達したものと思えます。
ヨハネは思ったことでしょう。

「自分は老年になり、肉から霊の世界へとアセンションしたのに、
わが師、イエスは30歳でこの世界を生きておられたのだ・・・
なんとすごいことだったのか、若い時にはわからなかった・・・
老いることは僥倖だ」

これは、ポジティブ思考とは次元が違います。
そこから見える世界はどんなでしょうか。

 曽野綾子さんの本を読む代わりに、聖書を一層深く読んでゆきたいと願わされる私です。
キリストを見上げて、
歌いつつ歩んでゆきます。

  ハレルヤ!

 

 

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