赤塚高仁ブログ

聖書に学ぶやまとこころ

2015.01.02

 今年も残すところ、あと364日となりました。

毎日毎日、新しい朝を迎えることができること感謝です。

いつか、目が覚めない朝が来ます。

その日まで、世のため人のために命を燃やして参りたいと思わされます。

「朝」という字を分解すると

十・日・十・月・・・並べ替えて、「十月十日」

人がこの世に誕生する 「とつきとおか」が現れてきます。

毎朝が新しい命の誕生ということでしょうか。

一日を精一杯命燃やして生きる。

過ぎた昨日に引きずられることなく、

まだ見ぬ明日におびえることなく。

過去には後悔しかなく、

未来には不安しかない。

そこに心が行ってしまうと、エネルギーはじゃじゃ漏れ状態。

命は、いま・ここ にいるとき、創造主とつながりエネルギーはチャージされ立ち上がる。

 

イエスはこう言っています。

 「それだから、あなたがたに言っておく。
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。
命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。
まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。
それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。
あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。
野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、
あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。
あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。
そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。
あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である 」

 

 わずか33歳でこの世を去った一人のイスラエル人が、2015年経った今でも人の魂に風を吹かせます。

それは、彼がいまもなお生きて働いているからです。

「風」とはヘブライ語で「ルアハ」・・・創世記のエデンの園で神がアダムの鼻から吹きいれたのがルアハ。

これを聖書では「命の息」と訳しています。

 

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。

そこで人は生きた者となった」(創世記2-7)

 

ルアハには「神の霊」という大事な意味があります。

イエスの言葉には神の命が宿り、それが私たちの魂に接触するから、魂が震えるのです。

わたしたちの魂は、本当のことを知っているからです。

旧約聖書が書かれたのは、ヘブライ語です。

新約聖書はギリシャ語。

2600以上の言語に翻訳された聖書は、元の命を失ってしまっている文章が沢山あります。

翻訳した人が神の霊に満たされて書いていないからです。

それを物語のように読んでしまっては、聖書に秘められた命が汲み取れません。

 

「人間は星のかけらでできた肉の器かも知れません。

しかし、その鼻から神の霊を注ぎこまれるとき、ヒ(霊)ト(止)

神の霊が止まるヒト、となり、

神とつながっている状態を「生きている」というのです。

ですから、神から離れることを人としての「死」といいます」

 

 創世記をこんな風に読んでみたらどうでしょうか?

やまとことばとつなげて理解したら、私たちに近づいてきませんか?聖書が。

 

 糸川英夫博士は、クリスチャンでした。

しかし、すべての宗教を平等に認め差別しない科学者でもありました。

私は、糸川英夫先生から旧約聖書を学び、

キリストの幕屋の高橋恒男先生から、新約聖書の命を授けられました。

イスラエルに12回導かれ、現場で聖書を体感してきました。

まさに、足の裏で聖書を読んできたという感じでしょうか。

だから、時空を超えて聖書に書かれた文字に載っている祈りが聞こえるのです。

聖書を書かされた人の霊的状況にシンクロして、書いた方から読むのです。

どんな想いでこの文章を書かされたのか・・・と。

その読み方から、古事記がわかりました。

だから、聖書も古事記も同じなのです。

聖書がわかれば、古事記がわかる。

一度日本を離れて、ユダヤからヤマトを見る。

魚は水から出たとき、初めてこれまで水の中にいたことがわかるのでしょう。

だから、我々ヤマト人も日本を離れ、聖書から日本を観てみる。

このアプローチは最上! めちゃくちゃ面白い!!

牧師は伊勢神宮のことも天皇のことも学ばないし、神主は聖書を読まないしイスラエルにも行かない。

「統合」 これが今年のキーワードであり、テーマです。

 

 この世の成功哲学や、生き方のノウハウを売り物にした本が無数に書棚に並びます。

人生訓をどれだけ覚えても、人は平安を得ることはできないのです。

死んでいるからです。

たった3年間、肉体を持ち地上を歩いた神の子、イエス。

彼が語った言葉に乗っている命を受け取り、鼻から神の霊を迎え入れ、「生きた者」となる。

それが、聖書に学ぶやまとこころの勉強会です。

一切の宗教を超越し、統合し、やまとこころに火をともす。

 

 大晦日から元旦に伊勢神宮での徹夜の篝火御奉仕をさせていただきながら、ずっと神様との対話が続きました。

いよいよ今年、聖書を説きます。

ヤマトのために。

縁ある方に一年間語ることによって、私の中にあるものを棚卸しながらヤマト人へのメッセージをまとめあげます。

2月7日から開始しますが、会場の名古屋国際センタービルはわが師糸川英夫が毎月講義に来てくださった場所。

20年の時を超えて、糸川英夫の想いをもダウンロードして参ります。

少数での学びの会ですが、全会参加が条件です。

多分、世界中どこに行っても聞けない話だと思いますから、縁ある魂の兄弟姉妹との霊のインナートリップ。

わくわくが止まりません。

 

 

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