赤塚高仁ブログ

こころ、コロコロ

2015.01.13

 27年前のあの日、糸川英夫博士の家に行かなければ、この私はどんな人生を送っていたことでしょう。

東京世田谷葬儀会館に集った、魂の兄弟姉妹もすっかり老けて、時の流れを感じさせられました。

喪主のはじめさんの挨拶、

 「母が、人生で一番幸せだったのは、糸川英夫が倒れ、病院で看病していた3年間だったと、

ずっと言い続けていました。

24時間、ずっと英夫さんと一緒だ。

だから、今日、糸川博士と母との二人の写真をここに飾らせてもらうことを、

どうか、親族の方々、ご理解ください。

JAXAの先生方、イトカワを目指して飛んでいった母の魂を

どうか、無事に着陸させてやってください」

人間として、魂から感動しました。

アンさんに家族があり、糸川先生に家族があり、

それでも 二人離れることができず、道ならぬ愛を生き抜いた。

アンさんはやっぱり、私の心の母なのです。

 

 人の気持ちは、コロコロ変わります。

だから、ココロというのでしょうか。

変わるココロに一喜一憂する人生から、

変わらない大切なものにアクセスして、

自分だけの生き方を喜び、

周りに光を放つのか、

どんな選択も自由自在なのが、この3次元現象界と思えます。

自分に正直に、愛を貫いた糸川先生とアンさんが教えてくれたことを大切に生きます。

 

「褒められれば嬉しいし、子どもように喜んだりします。
 悪口を聞けば傷つきます。
 自分でも知らぬうちに嫉妬心が芽生えたり怒りも感じます。
 
そして笑い、泣き、怒り、争ったりしますが、全て必要だから与えられている感情です。
 
心はいろいろな形で動きます。
 内に働く欲望もそのひとつです。
 人は不必要な欲望は授けられていません。
 
どんなに必要な欲望でも心の動きが適当で無かった時、善心、邪心とか表しています。
 
どんな心の動きの時にこれが決まるのでしょうか。
 
この世はすべて〈もと(本源)〉があって出来上がっていますから、

末の事柄にあることは末を末たらしめている〈もと(本源)〉に反対しているか矛盾している時、きたなきこころ(邪心)といいます。
 
この場合〈きた〉というのは、順序、秩序という意味です、物の分、段、けじめが〈きた〉ない状態、整頓されていない心がきたなきこころ(邪心)です。
 
きたない状態さして汚れといいます。けがれとは〈ひのけ〉気の枯れた状態を言います。
 

〈もと(本源)〉とは〈おひさま〉の〈ひかり〉に照らされてありのままの姿になった状態〈清明心〉です。うるわしき心です
 
うるわしということは普通の漢字では麗の字になります。古事記には"善"の字が当てて有ります。
 
神ながらの5則の中の第4則にも
 「あかきこころを以って、汚れをはらい、その中よりうるわしきことを生ぜしむ」と有ります。
 
これらの場合の〈うるわし〉は、「すべてそれでよろしい」という状態でそれは、真であり、善であり、美であり、愛であるということです。
 
要するに大和民族が論理的にも、倫理的にも、審美的にも、人情的にもその他どのような見方からしてもこれでよろしいという場合〈うるわし〉というのです。
 
おひさまに照らされて日のけ〈き〉を得るならばそこに〈きた〉を生じて〈うるわしこころ(善心)〉の状態になるのです。

朝日に祈ること、神棚、仏壇に手を合わせる事、「いただきます」「おかけ様で」と見えないものに手を合わせる、顔を洗うこと
 身の回りを清潔を保つこと、掃除か好きで、公共の場を汚さないこと、お風呂、シャワーを欠かさず。

身体を綺麗にすることなと数え上げればきりがないほど何度も何度も、清きこころ、愛のこころ、善の心、真心の状態でこの身体を使おうとしています。
 
光を得ることはみそぎ(禊)です。
 日本人は折りふれ日常に禊ぎを取り入れていました。
 
心は弱きものでコロコロ 変わります。そして知って知らずして邪心にもなりますが
 
不必要な 欲もないように、嫉妬、悔やみ、憎み、怒りにこだわりすぎることなくなるべく早く本源に立ち戻り
 
心のなかを明るく、素直に、元気に爽やかに、愛のこころ、善の心
 でおかげ様を生きることを喜びたいとおもいます 」

 

 華都子姉さんのブログにヤマトの民としての生き方の道しるべがあります。

今年初めからの姉さんのブログをどうぞ読み、腹に落として参りましょう。

http://ameblo.jp/k-konnothalasso/entry-11975376313.html

そして、どうか直接、今野古事記塾で華都子姉さんの波動として細胞に刻んでください。

ヤマト人としての生き方の道が、はっきり見えてくることでしょう。

 

 

 

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