赤塚高仁ブログ

奇蹟の食パン

2015.02.24

 27年前、知多半島にすごいパン屋さんがあるよと聞かされて見学にいきました。

当時一緒に経営を勉強していた仲間と共に、武豊まで走ってゆきました。

パン屋の社長は、久米さんで私の7歳年上の人でした。

何気なく始めたパン屋だったけど、パンを造る指導を受けたとき材料のほかに入れる「薬」が気になった。

作り手が便利なように入れる添加物を調べたら、発がん性があったりして食べた人によくないことがわかった。

久米さんがすごいのは、それから添加物を使わないパンをつくり始めたことです。

思うように醗酵しない・・・薬を使えば一気に解決するのに、工場の中を味噌づくりの蔵のような状態にしようと古木や布を使って酵母菌が喜ぶ環境を作り始めるのです。

小麦も量産メーカーが使っているようなものだと、一気に高速で粉にするので熱変性してたんぱく質が劣化するといって、石臼でひいたような小麦粉を特別につくります。

南アルプスの伏流水を天然石の中を通した生きている水で、その小麦をこねる。

こねるためのミキサーも何台も何台も壊して、ついに納得できるこね方のできるミキサーを独自で開発してしまいます。

もちろん、砂糖、塩、バター一切の材料も吟味し尽くしてつくられるのです。

量産メーカーがつくるパンの数十倍の手間がかかっています。

だけど、数十倍の価格で売れるわけではありません。

久米さんは、いのちを削ってパンを作っていたので、ガンになってしまいました。

それでも、美味しいパンをつくりたい一心で復活し、パンを作り続けています。

 

 はがき道の坂田道信先生が、「赤塚さん、謙虚な人になりたかったら久米さんを見習ったらええよ」と言ったほどの久米さんです。

いつしか、大の仲良しになって、一年間のうちで200日一緒にいた頃もありました。

一緒にいないときも、毎日電話で話していました。

ブログによく登場するいなくんも、久米さんがログハウスに連れて来てくれたのが出逢いのきっかけです。

鍵山秀三郎さんも久米さんなしでは出会えなかったお方です。

私の運命の扉を開いてくださった久米さんですが、ずいぶん永く御無沙汰をしていました。

そんな久米さんから電話がありました。

アンさんを偲ぶ会に出席できなかったお詫びの電話でした。

工場の移転やいろんな出来事があって、本当に大変な日々を送っておられたそうです。

久米さんは、毎朝2時から働いているし、夜もいつ寝ているのかわかりません。

 

 そうだ、久米さんに会いに行こう!

高速飛ばして往復3時間のドライブ。

懐かしの知多半島道路。

何度この道を通ったことでしょう。

パン屋さんには大勢のお客様、嬉しいことです。

久米さんとの再会。

山ほどパンを買いこんで、津に帰ってきました。

奇蹟の食パンは、まったくそのままで後味のよい、命の喜ぶあのパンが毎日焼かれていました。

 

 私の話がおおげさかどうか、是非取りよせて食べてみてください。

奇蹟の食パンを! http://www.ble.ne.jp/

 

 いつしか陥っていた傲慢な世界。

「良いと思ったら終わりだよ」
「舞台を降りたら、自分の事は、役がついてない人より、誰よりも下手な役者と思いなさい」
「その歩き方がいけない、背中に謙虚さがない」
「今、気持ちいいと思って踊っていたんじゃないかい?」

玉三郎さんがお父さんに言われ続けた言葉。

同じ事を自分が言われたら、きっとむくれて、イラついて、反発して、すねている。

「私はやっている!」
低い低いレベルの意識。
小さく固くせこい意識。

自分はもっと成長したい
自分はもっと願われた命を生きたい
自分はもっとたくましく繋がり、美しく稼ぐ力をつけたい
この光と叫びと闇の叫びの狭間で、ギリギリ踏ん張る。

そして、

「私はやっている!」が出てくる時は、「見えてない時」でもある。
何が見えてないか?
「GRACE」神の恩寵が全く見えていない。

自分にはそれを得る為の努力や資格があった訳ではないのに、人生からもらったギフトの数々を数えられていない時。

それは、今ここに居ない時、全く見えない。
今ここに居る時しか見れない風景。

 

 調子に乗って図に乗ってしまっていた私に、メッセージを届けてくれたいなくん。

そのいなくんを紹介してくれた久米さんに感謝することさえ忘れていた。

自分に何の資格も努力もあった訳ではないのに、人生からもらったギフトの数々を数えられていなかった。

「私はやっている!」

とんでもないことです。

神様の一方的な恩寵に手を合わすことさえ忘れていました。

GRACE

命のパンを今朝もいただき、奇蹟の食パンをいただき、一日を始めさせていただきます。

 

 

 

 

PAGE TOP