赤塚高仁ブログ

天皇の島・ペリリュー

2014.03.14

世界百九十番目の独立国「パラオ共和国」

 

 フィリピンとニューギニアの中間に位置する「パラオ共和国」は大小二〇〇の島々からなる独立国です。

スペイン領からドイツによる統治へ、第一次世界大戦後は三十年間日本による委任統治が行われました。

日本は、台湾や朝鮮と同様、統治する先にインフラ整備をはじめ教育、医療施設の整備を行い、パラオの生活水準の向上を推し進めたのです。

いまでも年配の方々は、実にきれいな日本語を話されます。

島のために汗を流した日本人をパラオの人たちは尊敬し、子供に日本人のような名前をつけました。

私が乗ったタクシーのドライバーの名前は「海一郎」さん、日本海軍のように強い人になってくださいとおばあさんがつけた名前だと言います。

パラオの人たちにとって日本人は、平和だった島に恐ろしい艦砲射撃と空襲を仕掛けてくる米軍を迎え撃って、

彼らの祖先の島を守るために死んでいった立派な人。

そうした記憶しかないのです。

それが、島に満ちている日本人に対する思いであり、そこから感じられる波動でした。

 

「オレンジビーチ」へ

 

本島から一時間半余り南へモーターボートを走らせると、緑濃き平坦な島影が見えてきます。

うっそうと繁ったジャングルは、日米決戦の前の姿に戻っているようでした。

昭和一九年、まさに大東亜戦争末期、米軍はこの島に日本軍が造り上げた飛行場を盗りに来たのです、フィリピン奪還のための足場として。

島の中川大佐率いる守備隊は、日清、日露戦争でも名高き水戸歩兵第二連隊を中心にした一万千人。

対する太平洋艦隊の最強部隊第一海兵師団ほか四万八千人。

マリアナ諸島攻略戦の余勢をかった米軍は、「激しい戦いになるだろうが、多分我々は三日で終える。二日間だけかもしれない」と言っていたそうです。

この戦闘に先だってペリリューの島人たちは、日本と共に先祖の島を守るために戦いたいと言いました。

しかし、中川守備隊長はそれを許さず、島民全員をパラオ本島に避難させ、島民の被害は皆無であったといいます。

また、中川大佐はこれまでの万歳突撃の戦法を改め、五百箇所ほど洞穴を堀り、徹底的な持久戦を戦い抜く作戦をとりました。

洞穴の一番大きなものの延長は九〇メートルもありました。

九月十五日、日本軍は、一斉に上陸を始めた米海兵師団を狙い撃ちし、米軍は五千人の死傷者を数えました。

そして、その浜辺は、鮮血でオレンジ色に染まり、オレンジビーチと呼ばれるようになったのです。

上島先生の机の上にあったオレンジビーチの砂の意味が、ようやくわかりました。

悲しいほどきれいなエメラルドグリーンの海でした。

 

「天皇の島」ペリリュー

 

塹壕の中に入ってみると、真っ暗闇の中、懐中電灯の灯りに照らされた先には、ついいましがたまで日本の兵士たちが居たかのように食器や空缶が転がっていました。

上陸に先立ち米軍が打ち込んだ爆弾は十七万発、日本軍の艦隊も航空機も壊滅状態です。

軍艦、輸送船約五〇隻が珊瑚の海に沈んでいきました。

制空権も制海権ももはや日本軍にはありません。

食料も救援物資も武器弾薬も補給は一切ないのです。

しかし、日本の守備隊は塹壕に潜み、耐えに耐え七十一日間戦い抜きました。

天皇陛下は、毎朝「ペリリューは大丈夫か」と御下問され、守備隊に十一回もの御嘉賞を下賜されたといいます。

ペリリューが「天皇の島」と呼ばれる所以です。

弾も尽き果て、刀折れた十一月二十四日、中川大佐は最後に「サクラ サクラ」と打電し司令部壕の中で自決、戦いは幕を下ろしました。

米軍も八千もの死傷者を出した大東亜戦争で最も烈しい戦場の一つが、このペリリュー島だったのです。

この島から生還したのです、上島先生は!

「夜中に戦友の声で目が覚めるんや、赤塚君」と、遠くを見る目で語っておられたのはこの島での記憶だったのですね。

聞かせてもらいたかったです、上島先生。

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