赤塚高仁ブログ

終戦の御聖断

2014.08.11

 大雨が降り、列車が止まったり、飛行機が欠航したり、いろんな損害がでたことでしょう。

建物などに被害もあり、私も、朝から床下浸水したお宅の、基礎に漬いた水をかい出しに行って参りました。

午後からも、救援活動でございます。

でも、69年前の今頃 日本には雨ではなく、爆弾が雨のように降っていたのです。

津の街も焼け野原となり、大勢の方が亡くなりました。

日本が世界の超大国、アメリカを相手に戦争をしていたからですね。

アジアの独立のために、止むにやまれず立ちあがった日本ですから、大東亜戦争なのですが、

いつしか「太平洋戦争」とウソの名前を覚えさせられてしまいました。

 広島のフジハラレディースクリニックでの講演の際、ご縁をいただいた ごとう孝二さん。

フェイスブックでいつも素晴らしい文章をアップしてくださっています。

今日の私のブログは、ここから先、ごとうさんのコピペです。

どうしても読んでいただきたかったので、一字一句手を加えず、そのまま載せさせていただきます。

 

 

  開戦の決定とは対照的に終戦の決定は陛下お一人の決断で、

通常とは異なる手順でなされた経緯を、現代の日本人は知らないのではないでしょうか。

 戦争の結末は、もし陛下がそう命じれば、一億玉砕のような状況もありえたかもしれないのです。

一般論ですが、普通の君主なら、人民をいくら犠牲にしても、自分が助かる道を選んだでしょう。

しかし昭和天皇は自らの身を捨てて国民を救ったのです。

8月6日、広島に史上初めて原子爆弾が投下されました。

9日には長崎に2発目の原爆が投下されました。

沖縄を収めていた連合国軍は10月には南九州に上陸する計画でした。

そして11月には関東地方に上陸を敢行する計画も立てられていました。

このような危機が刻々と迫る中、軍部も内閣も、陛下の御身を思えばこそポツダム宣言(無条件降伏)受諾をできないでいました。

ところが、御前会議において、陛下ご自身が、身を捨ててポツダム宣言(無条件降伏)を受諾する旨、意見を述べられました。

御前会議で陛下が発言され、それに基づいて会議の決定とされたのは、異例中の異例であったのです。

本文は、その場面に立ち会った一人であり、内閣書記官長として列席していた、迫水久常(さこみずひさつね)氏の証言に基づいています。

 第二次世界大戦末期において、国土は原爆を投下され、数多くの同胞を、国土内、のみならず、あるいは北の地に、あるいは南の空に失いました。

それにもかかわらず、当時の最高戦争指導会議においては、

ポッダム宣言の受諾か本土決戦覚悟の戦争継続か、議論は二つに分れて、どうしても決まらなかったのであります。

そこで、まとまりをつけるためには、陛下の御聖断を得るほかなしと、当時の鈴木総理は決意をして、

昭和二十年八月九日の二十三時から、地下十メートルにある宮中防空壕内の一室で、歴史的な御前会議を開くことになりました。

 「陛下は足どりも重く、お顔は上気したるごとくにて、入ってこられました。

今も深く印象に残っておりますのは、髪の毛が数本額に垂れておられたことです。

会議は総理が司会致しまして、まず私がポッダム宣言を読みました。

日本に耐え難い案件をのむのでありますから、まったく、たまらないことでした。

次に外相が指名されて発言しました。

その論旨は、この際、ポッダム宣言を受諾して戦争を終るべきであるということを、言葉は静かながら、断固申されました。

次に阿南陸軍大臣は、外相の意見には反対でありますと前提して、

頭を垂れ涙と共に今日までの軍の敗退をおわびし、

しかし今日といえども、必勝は帰し難しとするも、必敗とは決まっていない。

本土を最後の決戦場として戦うにおいては、地の利あり、人の和あり、死中活を求め得ベく、もし事、志たがうときは、

日本民族は一億玉砕し、その民族の名を歴史にとどむることこそ本懐であると存じます、といわれました。

次の米内海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意であります、といわれました。

平沼枢密院議長は列席の大臣総長にいろいろ質問されたのち、外相の意見に同意であるといわれました。

参謀総長、軍令部総長は、ほぼ陸軍大臣と同様の意見であります。

戦争終結3名
本土決戦3名

議論はまとまりません。

この間、二時問半、陛下は終始熱心に聞いておられましたが、

私は、ほんとうに至近の距離で陛下の御心配気なお顔を拝して、涙のにじみ出るのを禁じえませんでした。

一同の発言のおわったとき、私はかねてのうち合せに従って、総理に合図いたしました。

総理が立ちまして、おもむろに、

『本日は列席一同熱心に意見を開陳いたしましたが、ただ今まで意見はまとまりません。

しかし事態は緊迫しておりまして、まったく遅延をゆるしません。

おそれ多いことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをおうかがいして、

それによって私どもの意見をまとめたいと思います』

とのべられ、静かに陛下の御前に進まれました。

そのとき阿南さんは、たしか

『総理』と声をかけられたと思います。

しかし総理は、お聞こえになったのか、お聞こえにならなかったのか、そのまま御前に進まれまして、

ていねいに御礼をされまして、

『ただ今お聞きのとおりでございます。
なにとぞおぼしめしをお聞かせ下さいませ』

と申しあげました。

陛下は総理にたいし、席に帰っているようにとおおせられましたが、

総理は、元来、耳が遠いために、よく聞きとれなかったらしく、

手を耳にあてて、『ハイ』というふうにして聞きなおしました。

この間の図は、陛下の前に八十の老宰相、君臣一如と申しますか、何ともいえない美しい情景でありました。

総理は席へ帰りました。

天皇陛下はすこし体を前にお乗りだしになるような形で、お言葉がございました。

緊張と申してこれ以上の緊張はございません。陛下はまず、

『それならば自分の意見をいおう』
とおおせられて、

『自分の意見では、外務大臣の意見に同意である』

とおおせられました。

陛下のお言葉の終った瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前においてあった書類にしたたり落ちました。

私のとなりは梅津大将でありましたが、
これまた書類の上に涙がにじみまじた。

私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえた気がいたしました。

次の瞬間はすすり泣きであります。

そして次の瞬間は号泣であります。

涙の中に陛下を拝しますと、はじめは白い手袋をはめられたまま、親指をもって、

しきりに眼鏡をぬぐっておられましたが、ついに両方の頬を、しきりにお手をもって、お拭いになりました。

陛下もお泣きになったのであります。

 陛下のお心のうちは、けだし、想像を絶するものがあったにちがいありません。

みんなが号泣しているうちに、なお陛下は、しぼりだすようなお声で、念のために理由をいっておくと、次のような意味のことをおおせられました。

 「太平洋戦争がはじまってから、陸海軍のしてきたことをみると、予定と結果が、たいへんちがう場合が多い。

大臣や総長は、本土決戦の自信があるようなことを、さきほどものべたが、しかし侍従武官の視察報告によると、

兵士には銃剣さえも、ゆきわたってはいないということである。

このような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか、ひじょうに心配である。

あるいは日本民族は、皆死んでしまわなければ、ならなくなるのでは、なかろうかと思う。

そうなったら、どうしてこの日本を子孫につたえることができるであろうか。

自分の任務は、祖先から受けついだこの日本を、子孫につたえることである。

今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらうほかに、

この日本を子孫に伝える方法はないと思う。

このまま戦をつづけることは、世界人類にとっても不幸なことである。

自分は、明治天皇の三国干渉のときのお心もちをも考えて、自分のことはどうなってもかまわない。

堪え難いこと、忍びがたいことであるが、かように考えて、

この戦争をやめる決心をした次第である...」。

 陛下のお言葉は、人々の号泣の中に、とぎれとぎれに伺いました。

日本国民と、さらに世界人類のために、自分のことはどうなっても構わないという、

陛下の広く無私なる御心に対し、
ただひれ伏すのみでありました。

陛下のお一言葉はさらに続きまして、

国民がよく今日まで戦ったこと、

軍人の忠勇であったこと、

戦死者戦傷者にたいするお心もち、

また遣族のこと、さらにまた、外国に居住する日本人、

すなわち今日の引揚者にたいして、また戦災にあった人にたいして、

愛情深い慰めのお言葉があり、一同はまた新たに号泣したのであります。

陛下のお言葉はおわりました。

時に午前二時でありました。                  

このようにしてあの大東亜戦争は終わりました。

すなわち大東亜戦争が終わったのは、

自分の身はどうなっても国民を救わなければならない、

自らの処刑を覚悟した決断でした。

このような天皇陛下の必死の思いによって終戦の御聖断は下されたのです。

終戦の御聖断は憲法に定められた立憲君主の立場を超えたものでした。

それは国民を救いたいという願いからの決断でした。

8月15日、玉音放送で終戦の詔勅が全国に放送され、

国民に呼びかける陛下のお言葉に全国の国民は泣き崩れました。

もし、本土決戦すればほとんどの

日本国民が亡くなっていた・・・

ということは私たちの先祖も

いなかった。

ということは私という命も

今、生まれてなかったのです。

存在さえしてなかったのです。

今日の日本、私たちがあるのは、

国民のためを思い、終戦を決めた

昭和天皇の御聖断にあることを

忘れてはなりません。

 

   もうすぐ、8月15日がやってきます。

日本人であることを、思い出し、この世に生きている意味を超えて、

生まれてこさせてもらった意味を生かされてゆきたいものです。

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