赤塚高仁ブログ

日々の生活の中で

2014.10.02

 機嫌良く運転をしていると、突然携帯電話が鳴ります。

イヤホンに切り替えて、電話をつなぐと小さなトラブルの連絡。

お客様の玄関ドアが壊れてしまって、家に入れなくて往生してる。

現場に入った材料が、曲がってて使えない。

入るはずの材料が入って来ない。

建て方が終わってみたら、サッシの寸法が違って、納期に3週間かかる。

・・・ 機嫌良かったはずなのに、一気に不機嫌モードにもっていかれそうになります。

そんなときまた電話・・・ なにかあったのか?!

 「おひるごはん家で食べるの?」 

ここで一言 「ありがとう」の言葉が出れば素晴らしいのですが、

「こっちはそれどころじゃない! そんなこといちいち電話してこないで」などと言ってしまうものですから、

話は、ややこしい方向に向かって行ったりします。

大体どこの家庭でも、アベノミクスやシリアのアサド政権のあり方でもめることはないと思います。

「今日の味噌汁ちょっと辛いね」などといった、ささやかな一言が地獄の一丁目となったりします。

「ごめんなさいね、気をつけるわね」 という返事を期待していると・・・

「お母さんからたくさん味噌をもらったから」

「だからといってたくさん入れることないやろ」

「いやなら飲まないでよ」・・・ そこから、物語はあらぬ方向に向かってゆくのであります。

これは、どこでもよくある風景のような気がしますが、

ほとんどのことは、思い通りにならないといっていいでしょうか。

これって、ふつうのことです。

 

 このごろ、ふつうでない事件が続発しています。

ふつうのひとが、いきなり人を殺してしまうような事件が新聞に載ります。

「まさか、あのおとなしい人が あんなことをするなんて」などと、近所の人の声が載ったりしますが、

おとなしくても、その人は感覚が異常なのであり、まともな感情が欠如しているのです。

人との交わりの中で関係性や、つながりを構築して社会の中で生きてゆくのが人間でしょうか。

子供は家事を手伝う中で、生きることを覚えてゆきます。

ところが、いつからか子供は勉強優先、いい成績をとって、いい大学を出て、いい会社に入れば一生安泰という風潮ができてしまったようです。

津の駅のまわりには、塾の建物がいっぱいあり、送り迎えの車で大変な混雑です。

学校に行かない子供もものすごい数なのだそうです。

友達や、嫌な奴との交わりの中から社会というものを学び、自分の立ち位置を見つけてゆくはずの場所がもはや機能していないということでしょうか。

家事を手伝うなどといった余計な時間があるのなら、勉強しなさいということなのかも知れません。

しかし、生活の中で体感したものでなければ、本当の生きた勉強とは言えないのではないでしょうか。

ものを記憶できても、応用もできず、感情のない人間になってしまいます。

 感情のない人間というのは、自分のことには敏感です。

自分が不愉快なことに対しては、ものすごく敏感です。

しかし、人にどれほど不愉快な思いをさせているかについては、まったく鈍感です。

人として最低です。

 

 古来から私たちヤマトの人々は 「お天道様がみているから」 「お天道様に恥じないように」と、

だれもいないと思っていても、自分の中の良心がずる賢い自分を見ていて、許さない民族性があるのです。

一神教の神様を出現させなくても、創造主が命令しなくても、

草や木にも、山にも岩にも神様が宿っておられ、自分の良心に語りかけるのを聞くことができる民族なのです。

だから、たとえ無意識であっても自分の良心が許さないことをやりつづけていれば、いつか精神がおかしくなって当然です。

そんな人がだんだん増え続けて、日本はもう危機的状況を迎えているように思えます。

 

 日々の生活の中で、身近な人を喜ばせ、自分自身のこころを磨き続けていたいものです。

誰がどうであろうと、自分だけはどんなときも、日本の役に立っていたいという気構えを持って生きていたいものです。

 

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