赤塚高仁 物語

17.アメリカンハウスの行き詰まり

順風満帆とは言えないにせよ、独自の「定期借地権による夢の創造」路線は、ニッチな客層にアピールして、それなりに競合のない受注をもたらしてくれていた。
社員、協力業者、アメリカに連れてゆき、住宅先進国の風を体感してもらっていた。
赤塚高仁の願いは、世界標準の美しい街並みが日本でできること。
家電製品、日本料理、自動車、大リーガーまでメイドインジャパンは世界標準だと言うのに、住宅だけは3等国。
だから、まずは徹底的に学ぼうと決めた。
なんちゃって輸入住宅が横行する中で、デザインとランドスケープ(景観デザイン)を徹底的に取り入れて、定期借地の土地の上に乗せた。
「美しくなければ街ではないし、美しくなければ家ではない」と信じているからである。
2000年、決死の覚悟でなけなしの資金を投入して宣伝広告し、オープンしたモデルハウスの見学会は、2日間で100組を超える来場があり、5件が即決した。
しかし、次第に集客が落ちてきた。
いつの間にか、高仁も歳をとり時代の空気を読めなくなってきたのだろうか。
ふと気がつくと、若い人たちにとってアメリカンライフは、あこがれでなくなっていた。
自分が、いいと思うことを伝えることが仕事だと勘違いしていたようである。
自己マーケティングが全くできていなかった。
広告を折り込んでも、来場者がないことを
「最近の若い者は、新聞を読まなくなったのだ」と言い放つ有様であった。

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