赤塚高仁ブログ

ネゲブ砂漠の朝焼け

2018.11.13

ネゲブ砂漠は午前5時、日本ではお昼休みです。
30年前初めてこの地を訪ねた時に泊まったホテルはまだあるのでしょうか。
砂漠の中の小さなホテルは、デザートインと言う名前でした。

シャワーのお湯が出ないとフロントで苦情言っている私のすぐそばを糸川博士が通りかかり、「どうしたんですか」と私に訪ねてくださったのでお湯が出ないのですと答えますと、

「あなた砂漠の子後に蛇口から水が出ると言うだけでどれほど凄いことかわかりますか?
苦情を言うもんじゃありません」

と叱られました。
冷たい水を浴びて、シャンプーしたこと、今では懐かしい思い出です。

町は大きくなり、
なりたくさんの家が立ち並び、
今私の泊まるホテルも豪華でバスタブには溢れるほどのお湯が蓄えられます。

1999年4月糸川博士がなくなったと報告をするために、私は20名ほどの仲間を連れてネゲヴ砂漠にあるベングリオン大学を訪ねてました。
団長としてヘブライ語でスピーチをしたのですが、日本語をへブライ語に訳したものを全部暗記してスピーチしたら、大学の所長はじめ皆が私がヘブライ語が話せると勘違いしてヘブライ語で話しかけてこられ、ずいぶん困ったことを思い出します。
そんなパーティを開催したのも、糸川先生との思い出のデザートインでした。

翌日ベングリオン大学を訪ねた私に総長がこう言いました。
「世界中でイスラエルを支援するのは、世界に来た同胞であるユダヤ人だ。
しかし日本にはユダヤ人はいない。
にも関わらずプロフェッサー糸川は、我々の大学を支援してくれた。
そのことがどれほど大きな勇気と誇りになったのかミスターAkatsukaお前はわかるか?」
糸川先生が創設した日本ベングリオン大学フレンズは私が引き継ぐ形となり、先生亡き後約10年間大学は毎年学校案内をたくさん私のところに送り続けてくれました。
しかし糸川先生亡き後大学を訪ねる事はなく、イスラエルのツアーも変化していったのです。

ところが今年の5月のツアーで本田健さんが突然私に「赤塚さんは糸川先生の思いの半分も実行していないね。糸川先生がそんなふうに感じている気がするよ」と言うではありませんか。
背筋が寒くなるような思いがしました。
確かにその通りだなと思いました。
まるで糸川先生がそばにいて、話してくださったような気がしたからです。

旅から帰りベングリオン大学にコンタクトを取り、関係を回復させたいと言うと大学側は大歓迎だと返事がありました。
そして、アカツカはいつくるのだと言ってきました。
私の知っている先生はもう誰もいないようですが、私はこうして荒野にやってきました。

今日はベングリオン大学で6時間のミーティングが待っています。
ヤマト・ユダヤ友好協会の会長として新しい未来を作るための運命的な1日となるでしょう。

来年の旅では、ベングリオン大学を訪問するツアーを復活させます。
砂漠を緑に変えてゆく彼らのフロンティアスピリッツは私たち日本人に大きな衝撃を与えるに違いありません。

ライフワークを喜んで生きると決めると、不思議が連続します。
そして不思議を詮索せず、動いてゆくとき、運命の扉が開くようです。

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