分け御霊
神道では、私たちはもともと一つの魂である大元の存在から分け出た「分け御霊」だと考えられています。
私たち一人一人の魂は、神様の分霊であり、それぞれのお役を担って、それぞれに人生を謳歌するものなのです。
つまり、私たちは、もとをたどればみな一つの大元に行きつきます。
だから、私たちはこの世ではそれぞれ違った顔かたち、性格、人生を恵まれますが、
それは、自ら分かれて「自分」となり、違った学びをするのです。
みんな違うけど、みんな同じ。
そして、神様も人間も同じ、
良心や直感を感じるとき、私たちの内なる神を感じているのでしょう。
人生で最も大きな問題は、劣等感からの解放ではないでしょうか。
劣等感・・・コンプレックスは持たないほうがいいのですが、ほとんどの人が簡単に捨てられないで悩みます。
私も、美しい容姿や、明晰な頭脳がコンプレックスとなり自分を苦しめます。
すべての人が、私を賛美しても、私が持たされたコンプレックスは私を苦しめます。
コンプレックスとは、自分と誰かを比べて、足りない自分に嘆き、悔しさや悲しさを生み、怒りさえ立ちあがってきます。
エネルギーじゃじゃ漏れ状態ですね。
この感情からの解放がなされたら、どれほどのエネルギーが自分に取り戻せ、
創造性が発揮できることでしょうか。
隣の家に蔵が建つと腹が立つ・・・と、言ったような嫉妬心もコンプレックスの主成分のひとつでしょうね。
そもそも、自分の能力を超えた人に嫉妬したり、足を引っ張ったり、悪口を言ってるのもつまらない話です。
その人も、同じ魂の兄弟姉妹であり、自分にできないことをやってくださっている尊い存在だと思えたら、嫉妬心など雲散霧消するのではないでしょうか。
自分の代わりに頑張った人に、エールや拍手を送れるようになれば、魂は輝きますよね。
人の活躍を聞くとため息をついたり、悪口を言ったり、嫌がらせをしたりすると、間違いなく魂は曇り、ツキは落ちます。
聖書に、「神は、人の髪の毛一本までご存知である」とあります。
すなわち、一切偶然などなく、すべてが必要・必然なのです。
私にはできることに限りがあります。
ひと頃は、成功哲学にハマり、心に鮮やかに描いた願いは叶う! 潜在意識に働きかけるのだ!!とプラス思考で生きるのだと力んでいました。
しかし、プラスの思いをもっている裏側に必ずマイナスの感情がひっついていることに気づきました。
成功のイメージと同時に、失敗の恐怖を体感するから、幸福感から遠く離れていました。
私にできることを祈るようになると、平安が訪れます。
ヤマトの人々は、「分相応」「足るを知る」「身の程を知る」という言葉を残してくれています。
下劣な西洋流の成功哲学は、永遠のコンプレックスのスパイラル。
やまとこころは、人の心に花を咲かせ、品格を生み、魂を進化させてゆきます。
電話機の画面で注文すれば、どんなものでも数日以内に届き、欲望をかき立てる宣伝広告が人を煽り、自給率40%を切っているにもかかわらず飽食の時代で、
「足るを知る」なんて笑われそうな言葉だけど、いまこそ取り戻さなければならない心だと思えるのです。
雨露をしのげる住まいがあり、飢えることもない生存の条件を満たしたうえで、あれも欲しいこれも欲しい、あれが足りないこれも足りない・・・
当たり前は、ありがとうの反対です。
分け御霊・・・ だから、みんな違って みんないいのです。