人のすべての考えにまさる神の平安
2012年06月23日
パウロは「人のすべての考えにまさる神の平安」と言っています。
この安らぎは、筋が通らず、こんなことになってしまった・・・にもかかわらず、何故?と、自分に問いかけます。
大手ゼネコンで、営業をしていた20代のとき、ワシはうつ病になってしまいました。
かなり重症で、会社を辞めることになりました。
ま、ショボイ性格でちっちゃい人間だったので、逃げ回ってるうちに逃げ場がなくなったのでしょうね。
性格は、今もそう変わりはありませんので、すぐに逃げるくせはそのままですが・・・
いい学校に入り、良い会社に入ることがステータスだったワシは、うつ病でそれらを失ったように思ったのでしょう。
28歳の時に自殺を図ります。
睡眠薬を数十錠、日本酒で流し込み、手首を切りました。
ためらい傷もない深さでしたから、おそらく少しでも遅かったら、いまこうしてブログを書いてるってことなかったでしょう。
不思議に、締め切ったはずの部屋に妻が窓から入ってきて、発見されました。
それから、一か月精神病院に入院するのですが、初めは絶望でしたね。
悲劇的な喪失だと思いましたから。
これまでの人生のすべてを失ったと思いこみましたからね。
社会的な地位も、「何も」残されてない限界的状況と思いました。
何に自分を同一化していたにせよ、何を自分自身であるかと思いこんでいたにせよ、それが奪い取られたのです。
東京六大学出身、大手ゼネコンの社員・・・自分勝手につくりあげてきた「私」という錯覚です。
それらが失われて、しかも、死ぬこともできず、精神病院の中で、なぜだかわからないのですが、
当初感じた苦悶や、恐怖に代わって、ふいに深い安らぎと、心の自由を感じました。
この安らぎは、筋が通らず、こんなことになったのに、どうしてこんな安らぎが感じられるのだろうかと問いました。
状況や他人や運命を呪うこともできたでしょう。
怒りや恨み、自己憐憫を失ったものの代わりに「私」として同一化することも常に習い性になっています。
しかし、そうした抵抗をせず、いまここを受け入れ、勝手に作り上げた「私」が死にました。
悲劇的な喪失にぶつかったとき、抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が拓くようです。
ワシの運命は、あのときから変わりました。
条件づけされていない意識が、ワシを支えてくれたようです。
そんなとき、状況や人々が協力的に展開し、不思議な偶然が次々おこります。
行き詰まりこそ、神の最善。
抵抗の放棄とともに訪れる平安と静寂、それこそが神のもとでの安らぎでしょうか。
いまいちど、思いだしたいものです。